イージーゴーイング




久しぶりに暇だった。

月光号に乗るに当たって、レントンは全く手荷物を持って来ていなかった。
出発する前に自宅は半壊、家具や服は親切心(?)を起こしたエウレカによって燃やされてしまった。
必要最低限の着の身着のままレントンは月光号に乗り込んだのだ。
現在レントンが着ているのが一張羅と言ってもいい。
もちろん、新品のパンツ数枚だけは支給された。
あと、ムーンドギーと色違いのジャージーだ。
それは心なしかぶかぶかな気もしないでも無いが、この際文句は言えない。
何枚かのTシャツ、予備のズボンはホランドやムーンドギー、マシューなどからありがたく頂いた。
これは、お下がりというヤツである。
レントンは少しだけお下がりという響きに嬉しくなった。
異性の姉からのお下がりは貰ったことはないので、誰かからお下がりがもらえるということに新鮮味を感じたのだ。

今、レントンはよれた白のT-シャツに、短パンと言う涼しげな格好でたらいに水を張って、石鹸を着けたたわしでごしごしと靴を洗っていた。
たらいの水はみるみるうちに真っ黒く変わっていく。
いかに汚れていたかがわかるというものだ。

「…よーし、こんくらいでいーだろ」

お米だって、白いとぎ汁が真っ白になると米のうまみが半減するという。
靴だって、綺麗過ぎるとしっくりこない。
ちょっと薄汚れているぐらいでいいだろう。
レントンは綺麗な水でよく靴を濯いで、ハンガーの肩の部分を者が引っ掛けられるように曲げたものに靴を引っ掛けた。
こうすると水が良く切れて早く乾く。
乾燥機に入れることも出来るが、みんな乾燥機に靴を入れられることには嫌がるだろう。
肌に触れる服などとは違って、地面を踏んだ泥に汚れていた靴だから。

目下今日の最優先事項だった靴を洗うことを終えると、レントンはスリッパを引っ掛けてて自室に戻った。
ベットの上にはだしになって乗って、ぱふんと仰向けでベットに横になり、なんの飾り気もない天井を眺めた。


「あとは今日はなにしようかなー…」
「レントン?いる?」

控えめなノックとともに、エウレカが顔を覗かせた。

「エウレカ!なに、用事?あ、体の具合はもう大丈夫なの?」
「体はもう大丈夫。レントン、今、暇?」
「暇暇。なになに?」
「一緒に、ニルヴァーシュのとこいかない?」
「行くいく!」

レントンは大きく頷いて、ベットから飛び降りてスリッパをつっかけた。


++


ニルヴァーシュはいつもの場所に鎮座して…はいなかった。
広々とした甲板にその巨体を座らせていた。

「はい」
「え?なにこれ?」

エウレカがずいっと差し出してきたバケツと真っ白な雑巾を反射的に受け取ってしまってから、レントンははっとして聞いた。

「掃除道具」
「それは見たら分かるけど!…もしかして…」

レントンの目は、エウレカとレントンを待っているかのようにこちらを向いて座っているニルヴァーシュに吸い寄せられる。
まさかと思うが、いや、絶対そうだとおもう。

「…ニルヴァーシュを綺麗にするの?」
「そう。あの子、最近綺麗にしてあげる時間がなかったから…それに、ここのところ、ずっと頑張ってくれてたから、ご褒美」
「そうなんだ…」

レントンはニルヴァーシュに歩み寄って、彼(あるいは、彼女)の雄雄しい優美な鋼鉄の身体を見上げた。
よく見れば、確かに光に反射している金属面に埃のように薄汚れがいくつか見える。
雑巾をまずバケツの中の綺麗な水で絞り、そっと、機体の白っぽい部分を拭いてみる。
その拭いた面を裏返しにしてみてみて、レントンは思わず「ゲッっ」と呻いた。

「めちゃめちゃ汚れてるジャン、こいつ…」

レントンは、腕をまくった。

「お前ら、夢中になにやってんだあ?」
「見れば分かるでしょ、ホランドさん!ニルヴァーシュの掃除ですよ!」
「そりゃ、見りゃ分かるが…」
「ホランド、ニルヴァーシュが喜んでるの。綺麗になったって」

ホランドはニルヴァーシュとエウレカ、ニルヴァーシュとレントンを見比べた。
キュッと眉間に皺を寄せて、考えるように顎に手を当てること、数秒。

「ふーむ…そうか。よし、分かった!」

ホランドはポンッと手を打つと、早足に甲板から去っていってしまった。
その唐突な行動に、レントンは首をひねる?

「どうしたんだろ、ホランドさん?」
「さぁ?」


まぁ、あの人の考えることなんて、たいていどうしようもないことだもんなぁ…とレントンは失礼なことを思い、ニルヴァーシュの背中によじ登りながら細かいところまで雑巾で拭くのだった。


「『よし、分かった!』ってのは、こーゆー意味だったんですか…」

颯爽と戻ってきたホランドは、一人ではなかった。
己が一番乗る"ターミナス typeR909"とともに戻ってきて、ホランドの手にはレントンと同じようなバケツと雑巾が握られていた。

「オレだってなぁ、たまには愛機を磨いてやろうって思うんだよ」
「嘘だぁ。オレたちがニルヴァーシュを磨いているのみなかったら、やってやろうと思いました?」
「うるせぇっての。大事なのは、今、オレがやるための行動を起こしてるってことなんだよ」
「まぁ、別にいいですけどねー。つーか、一人で頑張ってください」

レントンがニルヴァーシュの乾拭きをしながら、額に浮いてきた汗を袖で拭った。
ニルヴァーシュの機体を綺麗にするのに思いのほか熱中して、けっこう疲れた。

「……ニルヴァーシュを磨くのは、もう終わったのか?」

ホランドはちょっと真剣な顔をして(というか、ホランドの場合はいつでも眉間に皺がよっているのでいつも一見真剣っぽくみえる)レントンに聞いた。

「終わった。でも、ニルヴァーシュがここにもう少し居たいって。粒子が気持ちいいって」

エウレカが雑巾を洗いながらうなずいて、ぴかぴかになったニルヴァーシュを嬉しそうに見た。
汚くなった雑巾を濯ぎにきたレントンは伸びてきたホランドの腕に首をロックされた。

「うわっ」
「おっしゃ!レントン。お前、オレの手伝え」
「ええーーー!!ヤダヤダ、嫌ですってば!!」
「ああ?オレが手伝えって言ってんだから手伝え、この野郎」
「苦しい!マジで首に入ってますって!」
「おらおら!オレのを手伝えー」
「うう、死ぬ死ぬっ!!ギブギブ!!」

もろに気道を圧迫されて、蒼白になりながらレントンはバンバンと手でホランドを叩いた。

「おーし、じゃ、始めるか」
「…し、死ぬかと思った…」

ホランドの腕を逃れ、レントンは四つんばいになりながらゼイゼイと息をついた。
マジで一瞬死ぬかと思った。

「こうやって見ると、やっぱりニルヴァーシュとコレって全然細部が違いますねー…」
「そりゃあな、タイプゼロとは違うさ」

レントンはニルヴァーシュを磨いていたのよりも若干に手を抜きながら、下から機体をしみじみと見上げた。

「ホランド。私もなにか手伝おうか?」
「いや、いい。エウレカはチビどもの相手をしてやってくれ」
「分かった。頑張ってね、レントン、ホランド」
「うんうん、頑張るよ、エウレカ!」

手を振ってかろやかにスカートを翻しながら月光号に走っていくエウレカを名残惜しそうに目で追って、レントンはガッツポーズをして気合をいれた。

「ほんっとにお前、お手軽なヤツだなー…」
「なんか言いました?」

ホランドの呟きはレントンには聞こえない。

「いや、なんも。口動かしてないで手ぇ動かせよー」


++


わいわいがやがや。
風の音に乗って、人の話し声が耳に流れてきた。

「?」

レントンは鼻の上を手でこすりながら、顔を上げて吃驚した。

「うわ!みんないる!!」

甲板になんの整列性もなく無造作に転々と置かれているターミナスを各乗り手たちが一生懸命磨いている光景に、レントンは目をまん丸にした。

「レントーン。そっちは終わったか?こっちは終わったぞ」
「終わりましたよ!みんないつのまに出てきてたんですか?」
「結構前からだぞ。お前、周りの音が聞こえないほど磨くのに熱中してたのか?」
「全然気が付きませんでした…」

オレって、そんなに熱中してたんだなぁと、レントンは雑巾を絞りながらちょっと自分で自分で褒めた。

「水、捨ててきますね」
「おう。よろしく」

バケツの水はすっかり黒くにごっていたので、掃除も終わったことだし捨ててこようとレントンはバケツを持ち上げた。中にはホランドが使っていたと思われる雑巾がぷかぷか浮かんでいる。

「あ、これもおねがーい」

横からタルホがバケツを突き出した。

「え…」
「片手が空いてんだから、持てるでしょ」
「ヴ…」

そういわれたら、弱かった。
タルホに押し付けられて両手にバケツを持ち、よろめきながら中の水洗い場に行った。

「ふー…タルホさんはホント、人使いが荒いんだからなーもう」

ぐちぐちと言いながら雑巾を洗って、シャッターの向こうで嬉々として自分たちのを磨いているゲッコウステイトたちを見ると「ああ、この人たちもLFOが好きなんだなー」とこっちまでなんだか嬉しくなる。
エウレカと共に、自分がLFOを操れるることが夢のようだ。
いつかは絶対にあの町を出て、空を駆けようと思っていた。
それが、憧れのホランド…いや、憧れだったホランド?(過去形)のゲッコウステイトの一員でいるだなんて、ふと我に返ったときに何度だって自分の頬っぺたをつねってしまう。

せっせと磨いているゲッコウステイとたち。
彼らは全員黙って真面目な顔で立っていれば誰もが美男美女だ。
けれど、行動と言動が、あっさりと憧れを打ち砕かれた。

(それでも多少は尊敬できる部分もあるようで無いような…)

「レントン?」
「あう。エウレカ!?」

振り向くと、不思議そうな表情でエウレカが立っていた。
ゲッコウステイトに対して微妙に失礼なことを考えていたので、微妙にレントンは慌てた。
エウレカは首を傾げて近づいてきてて「貸して」とレントン手にあったものを奪った。

「鼻の上汚れてる」

そういいながら、レントンの鼻の上を拭った。

「あ、」

いつもよりも近くにエウレカの顔があって、レントンは自分の顔にかぁっと血が上るのを感じた。

「取れた。…どうしたの、顔、赤いよ」
「いや…その!」

ばっとエウレカから飛びのいて距離をとって、レントンは視線をあらぬ方向に向けながら頬を掻いた。

「?君、やっぱり変」

エウレカのいつもと変わらぬ感想に、レントンは苦笑いをした。
ああ、こんな毎日がいつも続けばいいのに。