もうすこし、頑張れるか?



洗面台のふちを握り締める。
真っ白な陶磁器を伝っていくのは赤い筋。蛇口を捻って、勢いよく水を流して赤い色の痕跡を消す。ぐるぐると渦巻きを描いて排水溝に吸い込まれる透明に混じった赤は見る見るうちに消えていく。
洗面台に一滴たりとも赤がついていないことを認めてから、コップに水をなみなみとついで鉄くさい口内をうがいする。ペッと吐いた唾液交じりの水はかすかに桃色をしていたが、それも流しっぱなしの水流に流されていく。
口元を手の甲で拭った。

「…駄目かな…」

ツナは鏡に映る己が姿を睨みつけた。

「もう少し、頑張れるか?オレ?」

…答えは、無い。




もう少し、頑張れるか?




「十代目ー!一緒に帰りましょう!」

一日の授業を終えると、すぐに獄寺が鞄を担いで満面の笑みでツナに走り寄ってきた。いつもならここでツナも微妙な笑顔をしつつ頷くのだが、今日は困ったように眉をハの字に顰めた。

「あのさ、今日はオレ…」
「ツナー、今日オレ部活ねーんだよ。たまには一緒に帰ろーぜー」

ツナが言いかけたとき、背後から山本がツナに抱きついてきた。

「てめっ!十代目に馴れ馴れしくすんじゃねーって言ってるだろうが!触るな!」
「いいじゃん別にー。減るもんじゃねーだろー?」
「減る!減るったら減る!」
「たまにはさー、オレも帰るの混ぜてくれって」

ツナの頭上で言い合いをはじめる二人に、内心で大きなため息をしてツナは首に巻かれている山本の手をそっと外した。

「あのさ、二人とも」
「なんですか!十代目!」
「なに?ツナ」

ツナの控えめな呼びかけに。二人がバッと振り向いた。

(マジで息あってるし、この二人…)

「あのさ…オレ、帰りに寄るトコがあるんだ。だから一緒に帰れない」
「え、だったらオレも付き合いますよ」

もう、十代目が行くとこなら天国地獄トイレだって風呂場だって!一部、ヤバイこと口走った獄寺の言葉を幻聴だと思い込みながらじりじりと後退した。

「ごめん!オレの個人的な用事だし、一人で行かなきゃならないんだ!」
「なんだよ、ツナ、デートか?」

のほほんとしながらもからかうように山本が目を光らせた。

「デート!?デートって…十代目ぇ!?」
「あーもう、なに言ってんの山本!違うから!」

驚いたように目を見開いて獄寺が叫ぶのに、目の前で手を大きく振ってツナは否定する。それでもまだ信じられないように獄寺は物言いたそうに口を開きかけた。

「じゃ、オレ行くね!バイバイっ!」

ツナは言い捨てて、かばんを掴むと矢のごとく猛スピードで教室から飛び出した。

「十代目!」
「ツナ」

獄寺と山本の引き止める声にも一切振り向かず、ツナの姿はあっという間に見えなくなった。


++++++++++++++

ツナは一人、橋で立ち止まり川の流れを見ていた。いや、見ているようで見ていなかった。ただ、太陽を反射する水面の光を瞳に移しているだけだけだった。ぼんやりと、先ほどのやりとりを思い出す。


「…なんとも言えないね。」
「そうですか…もう少しは大丈夫ですか?」
「たぶん…いや、希望的観測を言うのはやめよう。いつ、どうなるか分からない」
「半年、ですか」

ぎゅっとツナはひざの上に置いていた手を握る。そして、もう聞くことはないとばかりに立ち上がった。

「…すまない。力が及ばなくて」
「いいえ。先生はずっとよくしてくれてます。オレは先生が担当医でよかったと心のそこから思ってますよ」
「……すまない」

診察室から出て行くツナの背後からの声に、ツナは首を横に振って退室した。


途切れることなく流れていく川にもあき、ツナはかばんを右肩に抱えなおして歩き出した。神妙そうな顔を普段道理の表情に変わる。誰かに気が付かれて欲しくもない同情をもらうのはごめんだった。

「ツナさーん!!」

大きな呼び声にきょろきょろとあたりを見回すと、制服姿のハルが手を振っていた。そして大急ぎでツナの元までダッシュしてくる。

「はひー。ツナさん、こんなところでなにしてるんですかぁー?」

ぜいぜいと荒く息をつきながらハルは聞いた。

「なにもそんなにダッシュしてくることないのに…」
「いーえ!ツナさんってば、なんか儚げーな感じでしたから、消えちゃいそうでしたよ!」

ハルが息を整え終わって、じっとツナを見つめてくる。

「…いつから見てんだよ、オレのこと」

ぼんやりと川を見ていたときから見られてたのだろうか。ツナは自然とぶっきらぼうな声で言った。

「え?あの、別にハルはツナさんが川に飛び込むのを心配してたわけじゃ…」
「って、それってなんの心配だよ!」

オレが飛び込むとでも思ってたのかよ!?
ツナは突っ込んだ。

「まぁ、それは冗談ですけど…」
「冗談なのかよ!」
「ほら、ここってハルがツナさんに助けてもらったとこなのです。ツナさんの真剣な横顔見てたら胸がドキドキしてたのですー」

きゅっうっと胸を押さえながら、うっとりとツナを見つめるハルにツナはげっそりと肩を落とした。好かれるのは嫌いじゃない。

でも…

「ハルは今帰り?」
「はい!そうなのです!」
「じゃ、途中まで一緒に帰えるか」
「はいっ!」

元気いっぱいにうれしそうに答えるハルにツナはやさしく見守った。浮かれたハルがツナの腕にぶら下がるように抱きついてきた。

(…きっと、君のオレへの恋心なんて気の迷いだ…)


+++++++++++++++++


「ただいまー」

ハルの家先で別れからほどなく、ツナは自宅に帰宅した。いつもならリビングにいる母親からの返事はないから、大方買い物にでも出かけているのだろう。靴を脱いで二階へ上がる。

「よう。今日は遅かったな」
「ただいま、リボーン」

部屋には微かに笑みを浮かべながら銃器の手入れにいそしむリボーンがいた。ツナは鞄を床に放りつつ、ネクタイを緩めながら落ちていた読みかけの漫画を手にごろりとベットに横になった。ぺらぺらと漫画を読んでる時間はかなり幸せだ。のんびりとした時間がすごく大切に思える。
リボーンも銃器を磨くのに熱中しているのか特にツナに何かを言うわけでもない。窓の向こうでは車の通り過ぎる排気音や、スズメのチュンチュンと鳴き声がする。過ぎていく時間に平和っていいなぁツナはしみじみと思った。わいわいみんなで騒ぐもの嫌いじゃないけれど、たまにはこんな静かな時間もいいものだ。

ガシャン
と、リボーンが銃の組み立てを終了する音がした。

「…今日は獄寺の送りはどーしたんだ?」
「獄寺くん?オレ、今日本屋よったから一緒じゃねーよ」
「獄寺のやつはツナのガードも負ってんだ。自分の身が可愛けりゃ、肌身離さず控えさせとけ」
「んー…」

気のない返事を返しつつツナは漫画をめくる手を止めることはない。リボーンは腹が減ったのかツナの部屋から階下へ降りてってしまった。パタンと部屋の扉が閉まる音を聞いてから、ツナはごろりと仰向けになって、漫画を胸の上に置いた。目の上に明るい夕焼けの日差しを遮断するように腕を持ち上げて額の上に置いた。
リボーンはあんな赤ん坊のなりをしていても、超一流の殺し屋だ。当然、人の表情や心機には鋭いだろう。

(…もしかしたら、オレの体のことにもすでに気が付いているかもな…)

だが、この老い先短い身を知っているなら、ある男…ボンゴレ九代目やらの依頼を受けるわけがないだろう。

「十代目ー?居ますかー?」

馬鹿でかい声が階下から聞こえてきてツナは起き上がった。十代目なんて自分を呼ぶ人間なんて限られている。獄寺のようだ。

「あ、お邪魔しマース」

たぶん、リボーンが玄関の鍵を開けたんだろう。社交辞令と共に階段を上がってくる音がする。

「失礼します!」
「獄寺くん…どうしたんだよ」
「どうしたって言われると困るんですけど…十代目が無事に家に着いたかなーと心配で来ちゃいました」
「…んな。オレ子供じゃないよ…」
「はい。すいません。…あ、これ手土産です」
「いつもありがとう…つか、いつも持ってこないでいいよ?」
「いえいえ!」

おみやげをオレに押し付けながら獄寺くんは笑顔だ。
いつも思うんだけど、獄寺くんってオレに笑顔の大安売りをしすぎじゃないか?獄寺くんの容姿とかっこよさにキャーキャー言ってる女の子に笑いかけてやったらいちころなんだろうけどなぁ…。…獄寺くんってオレに対してもすげー忠誠心に溢れているから、もし好きな人とかできたらどうするんだろう。
イタリア人っぽく情熱的にくどくんだろうか。

「そこらへんに座ってよ」

と、獄寺に座布団片手にベットから立ち上がった時だ。足元が揺らいだ。

ああ、ヤバイ。
ぐらりと周りの風景が歪んだ。

「十代目っ!?」

さっと獄寺が抱きとめてくれなかったら、そのまま受身も取ることさえ出来ずに地面に倒れてしまっていただろう。獄寺くんの腕に抱きとめられて、オレは咽た。

「ごほっ…」
喉の置くから這い上がってくるものに、肺が痛い。
口元をあわてて押さえたけれど、止めきれないそれが指の隙間からポタポタとの床に落ちた。

点々と。
赤く。


ヤバ…それを見届けながら、オレは意識を手放した。


+++++++++++++++


次に目を覚ましたとき、心配そうにしている顔、顔、顔があった。どこだろうと思ったが、すぐに分かった。オレの部屋だった。
獄寺くん、山本、ハル、ランボがベットの横から俺のオレを覗いていた。

「ツナさん!」

涙を浮かべたハルが、オレが目を開けたのに嬉しそうに言った。大げさだなぁと思ったけど、いちお笑っておいた。なんでみんながいるんだろうと思ったが、誰か…獄寺かリボーンから連絡でも言ったのだろう。

「ツナ。お前倒れたんだってよ。大丈夫か?」
「ツナさん!お医者さん呼びますか!?」
「十代目、オレたちのこと分かりますかっ!」
「大丈夫か?オレっちは心配しちゃったんだぞ!」

口々にオレに言う彼らをいとしく思う。

「大丈夫だよ。貧血かなんかじゃない?」

へらっと笑って見せたけれど、全員の顔は険しいままだ。

「十代目?血ィ吐いといて、貧血とか、適当なこと言わないでくださいね?」

低くドスの効いた声で獄寺に言われた。
まぁ…オレもそう思うけどさ。

「ツナ。病気にかかってんのか?」
「ハル、いい病院知ってるんですよ!行きますか?」

オレは黙って首を振った。気にしてもらえるのはありがたい。けれど、うっとおしいと思う心も存在する。

「ごめん。頭痛いんだ…一人にしてくれる?」

だから拒絶して、みんなに背を向けた。
ごめん…。





さらりとカーテンがなびいた。
オレは気配を感じて目を開けた。獄寺、山本、ハル、ランボの姿は無く、代わりにリボーンの姿がちょこんとあった。

「リボーン」
「よう。倒れたんだってな?」
「そうだよ。オレは病弱だからな。そんな人間をドンに据えてもいいのかよ?」

カマをかけてみる。オレの病気を知っているのなら、どういう風に反応を返すのだろうか?

「…ツナ。オレを試すな」

そう来たか。

「……知ってたのか?」
「調べたからな。全部」

はっ!鼻で笑ってやった。
知っていたのか。
そうか。

「…じゃあ、オレのことは放って置けよ!どうせ残り少ない命なんだ。どう足掻いたってボンゴレを継ぐことはできない」
「お前はボンゴレを継ぎたかったのか?」

声を荒げるツナに、リボーンは冷静な声で返す。ツナは唸るように小さく答える。

「…別に。死ぬオレには関係ない」
「お前は死なせない」
「無理だ。オレの病気、原因不明だって医者にさじ投げられたんだぞ?」
「それでも、大丈夫だ」
「何を根拠に…」
「二週間後、医者が来る」

ツナの言葉をさえぎって、リボーンは言う。

「そいつならツナの病気を治せるだろう」

リボーンは断言し、大きな目でツナを見つめた。どこからそのリボーンの自信がくるのか理解できない。医者にさじを投げられたんだぞ、オレの病気は?

「ツナは、ボンゴレを継ぐか?今までのダメさをかなぐり捨てて?」
「そっちも知ってたのかよ…」

やっぱりこいつは抜け目がない。暗くツナは喉で笑った。病気のことだけじゃなく、目立たないようにしていた脳みその回転まで。ツナは生まれながらずっと言われてきた。

『この子は十歳まで生きられないでしょう』

あいにく。それよりも長生きしている。母親は、オレが小学校に入ったときにオレの身体について包み隠さず教えてくれた。そのときの衝撃、心にぽっかりと穴が開いたかのようだった。さとい子供だったと思う。
悶々と考えて、やがて結論をだした。

頑張らないで過ごそう。

普通は、残り少ない人生、頑張って過ごそうと思うのが普通かもしれない。けれど、ツナはまったく逆のことをして生きていこうと思ったのだ。なのに今更、ほいほい頑張れっていうのかよ?

「お前の小学生のころの最初のIQテストは、260。普通の平均は100前後だからな。ツナは立派な天才だな」

どっからその情報を手に入れたんだか…。鼻で笑う気力もなくなってきた。

「それから少しずつIQの結果は落ちていってるが、それはわざと手を抜いたからだろう?」
「…さぁ?単に馬鹿になってるだけかもよ」

白々しく肩を竦めてみせるが、このリボーンには通じないだろう。オレがわざと手を抜いている確信を持っているからこそ、オレに聞いてきているのだ。

「それで?オレが頑張って生きるようになったら、なんかいいことでもあんの?突然ぱっと死ぬだけだろ?」

いつ死ぬか分からないと言われて育ってきたオレは、生きることに興味がなくなってきている。…いや、生きることに期待しなくなってきてるんだ。

いつでも「さよなら」出来るように。
学校でも他人とかかわりを持たないように気をつけてきたのに、オレがボンゴレ・ファミリーの十代目候補に挙がったことでおかしくなったんだ。次から次へと人が押し寄せて、ビアンキなんかはリボーンを取り戻すためにオレを殺すとか言っちゃってさ。
そんなことわざわざしなくても、オレはそのうち死ぬのに。
って、なんど口に出さずに思ったことだろうか。

「Dr.シャマルという医者がくる。お前の病気は彼が治す」
「だから!どうやって直せるっていうんだよっ!?そうやって、期待させるようなこというなよ!」

オレは声を荒げて怒鳴った。悔し紛れに枕を投げつけてやったが、リボーンはひょいっといともたやすく枕をよける。

「避けるなよ!」
「避けるさ」

余裕綽々な様子が、むちゃくちゃ腹立たしい。リボーンはとことことオレのベットに飛び乗って、拳銃を構える。真っ暗な銃口が目の前にさらされ、次の時には口の中に突っ込まれた。
カチンと、歯に当たりる冷たい音が、骨を伝って鼓膜に大きく響いた。

「怖がらないんだな…」
「怖がる?オレが銃口を怖がってどうなんの?どーせ、死ぬんだから」
「こんなかに入ってんのは死ぬ気弾じゃねーぞ?」
「…それが?」
「…お前、よっぽど生きる目的がないんだな」

ガラス玉のように何も見ていないツナの瞳にリボーンは呆れたように呟き、銃をおろした。オレは黙って目を閉じた。部屋に充満した沈黙の後、リボーンは口を開いた。

「…じゃあ、オレが生きる目的を作ってやろうか?」
「…なに?」

胡乱にオレはリボーンを見上げた。

「オレと、賭けをしようぜ」
「賭け?」
「ツナの病気が直ったら…二十歳以後の人生は、全てオレにくれるっていうのはどうだ?」
「…お前に?」
「生きる目的。オレがお前の生きる目的になってやるっていうんだよ」
「何を馬鹿な…」

ツナは笑い飛ばそうとしたが、赤子特有の真っ直ぐな瞳に笑いを呑みこんだ。

「ツナはオレの所有物になって、オレの言葉に従え。それがお前の生きる目的になる。お前を鍛え、守り、そしていつかオレがお前の死を見届けると…約束しよう」

ぞくりと、その無垢な瞳に潜む熱に我知らず背が震えた。

「この賭けに、乗るか?」

頷いたのは、気まぐれだ。
自らの身体を蝕む、原因不明の病気を治せる医者がいるとは夢にも考えていなかったから。



+++++++++++++



「リボーン…」
「よう、ツナ」


十年後。
相変わらずリボーンはツナの傍らにあった。



The end