02 Hello, hell !







≪オレはお前たちが『世界』と呼ぶ存在≫


ダレダ


≪あるいは"宇宙"、あるいは"神"、あるいは"真理"、あるいは"全"、あるいは"一"≫


ナニヲイッテイル


≪そして――…≫


アリエナイ


≪――……オレは≫


チガウ


≪そして、これがこの世界の真理≫



幾千本の黒い触手が侵食する飲み込む貪る

母から無心の愛を求めるように
咎人が縋りつき赦しを請うように



≪これは…等価交換だ≫


犯される侵される

黒が侵食する



それもひとつの




真理ヴァールハイト





これは、全ての感情だ。

それは血のにじむ努力しても成し遂げられなかった悔恨それは誰にも気が付かれずに死んでいった者の悲哀それは何も与えずに奪うだけだった世界に対しての留めない怨唆それは苛まれ続けた病魔の苦痛それは無知で愚かなるゆえの幸福それは絡め取られて底なしの沼のような恐怖それは踊らされたマリオネットの喜劇と悲劇それは夢見たものが追った届かぬ妄執それは生ぬるく暖かい関係の始まりと終わりそれは身を焦がすような相反する憎悪と愛情それは生まれ出でたことにたいする喜びの賛歌それは繰り返す苦悩の輪廻の果ての結果それは弱者が見た強気ものの傲慢それは強者が見た弱きものの卑屈それは押し付けられた正義の幻想それは地獄を見たものたちの全てへの絶望それは掻き消えてしまうほどの小さな希望それは真にひとりのものが抱く孤独の闇


生まれ出でた生命の声。
死に絶えた無音。


――…オレハ俺ハ俺は…







唐突に目が醒めた。
酷く気分の悪い夢を見ていたような気がした。酷く酷く、安らかな気分になったのと同時にどうしようもない嫌悪が身を支配した。夢の内容は忘れたが、その二つの感情だけは残っていた。全速力で走った後のように体中に汗を掻いていた。肌に張り付いた服がキモチワルイ。荒い呼吸を整えながら俺は周囲を見回した。白い部屋だ。鼻にツンとする匂いは馴染みは無いが良く知っている消毒の匂いだ。病院か?消毒液の匂いが染み付いている部屋なんて、それぐらいしか思い当らない。清潔な部屋を見まわして俺は首を傾げる。だが、俺はどうしてこんなところにいるんだ?ベットの横にあった水差しが置いてあった。俺は喉が渇いていたのでそれに手を伸ばそうと…して、違和感を感じた。窓の外に広がる草原。変だ。可笑しい。よく考えてみれば…思い出してみれば、先ほどまで俺がセイとナガレと一緒に居たのは人が住むことの無い鬱蒼と茂った辺境の森だ。人が近づかない代わりに珍しい動物が多く生息していることで有名だった。その場所の希少動物たちの生態系の様子を調査して、その土地を買おうとしている人間に報告するつもりだったのだ。
そう、間違ってもこんなに広々とした平原の場所ではなかった。人のいるところまでは三日ぐらい歩きと押さなければならないぐらいの広大な土地で、交通なんてものはない辺境だ。
ドアの向こうにに気配を感じるて目を上げれば、女性が一人入ってきた。彼女を見て身構えつつも俺がここは病院だと思っていた俺の推測は当たっていなかった。女性が着ているのは白いブラウスとスカートという普通の格好だった。彼女は俺が身を起こして驚いている姿に気が付き、盥を手ににっこりと笑った。

「目が醒めて?」
「…あ、はい」
「そう。良かったわ。まぁ、汗がびっしょりね。これで身体拭いて」

彼女は盥の中でタオルを絞って俺に渡してきた。素直にそれを受け取って身体を拭くと、滲んだ汗がふき取られて少しだけすっきりした。汗を吸い取ったタオルを返すと彼女は服を手渡してきた。ズボンとノーースリープのシャツ。変にごちゃごちゃした装飾も無い普通な服だ。地味な俺としてはこれは結構嬉しい。

「貴方が着ていた服の代わりにこれをどうぞ…あ、息子のだから遠慮なく着てね。私はサリアよ。サリア=ル−ジェス」
「ありがとうございます。俺はです。。あの、すいません。俺はどうしてここにいるんですか?ここはどこですか?」
「貴方、外の野原に倒れていたのよ…まさかと思うけど、軍人じゃないわよね?」
「軍人?いえ…俺は一般人ですけど」

俺は【HH】の世界でも一般人だった。ナガレやセイはハンターだったから一般人ではないけれど。その手伝いというか助手をしていた俺はやっぱり一般人なんだと思う。むしろ、足手まといだったような…。大体、【HH】の世界には軍隊っていう観念が薄い。国家間の戦争はそう頻繁に起こらない。…まぁ、その代わりあちこちで小競り合いは起きてるし、殺人というか、そういうものが合法化しているというか…。流星街ではもちろんのこと、ハンター証を取ったナガレやセイは外界でも殺人は合法化される。仕事の関係上であいつらが人を殺した姿は何度も見た。

「……そう、そうよね。良かったわ」
「どうも、身しらずの俺を助けてくださったようで、ありがとうございました」

あからさまにほっとした様子でサリアさんは胸を撫で下ろした。頭を下げた俺にサリアさんは懐かしいものを見るように目を細めて首を振った。

「いつもの私だったら、きっと助けないわ。貴方が…君がね、戦争に行った、私の息子と同じぐらいなの…だから、よ」
「…戦争?」

戦争?息子がどうこうということよりも、戦争の二文字が引っかかった。戦争とは国家間の争いや大規模な戦闘を思い浮かべる。近くの国で戦争が起こっただなんてセイもナガレも一言も俺に言ってない。聞いてない。サリアさんは息子を思い出しているのだろうか、潤んだ目元を拭いながらも気丈に笑った。俺には母親の気持ちなんて分からないが、戦争に行くぐらいだからそこそこの年齢の息子だろう。手塩に掛けた息子を戦場に出したがる親なんて少ないだろう、と推測する。

「ええ、息子は自分から志願して戦争に言ったわ。戦場はここから近いけれど…大丈夫よ、ここまでは戦火は来ないわ」
「あの…ここはどこなんですか?」

嫌な予感を覚える。セイもナガレも、どこにいるんだ?それに、戦場が近いだと?

「ここは東部の村アールガウよ」
「東部?アールガウ?すいませんが…この、国の名は?」

さっぱり知らない名前に、もっと大きな単位での区分を求める。村の名前を言われても分からない。

「おかしなことを聞くのね…ここはアメストリスよ」
「アリストリス…?」

サリアさんの言葉を復唱する。聞いたことがある名前だ。だが、その国の名は【HH】の世界にあるものではない。ここは…まさか…。

いや、まさか。と俺は浮かび上がった考えを否定しようとするがそれを否定する材料が無い。

「貴方…アリストリスでは珍しい髪と瞳の色ね。シン国の人な・・・」
「すいません!確認したいことがあるのですが、いいですか?」

俺の目と髪の色に興味を示したサリアさんの疑問を遮り、俺は幾分強い調子で口を開いた。シン国?

「ええ…なに?」
「この世界には……錬金術師がいますか?」
「もちろんよ」

俺は肯定された言葉に目を閉じた。ぎゅっとシーツを握り締める。もう間違いない。【アリストレス】、【シン国】、【錬金術】。その三つだけで十分だ。…十分、過ぎる。


ここは――…【鋼の錬金術師】の世界か…。


【HH】の次は、【鋼】だと?…なんなんだ…なんなんだよっ!?俺は一体どうなっちまってんだよッ!?俺は普通の人間だろ!なんの取柄も無い普通の人間だろッ?望んでいないのに!俺は生まれ育った現実世界から漫画の世界に来たいだなんて本気で一度だって望んだことは無いッ!!
やっと、やっと、【HH】の世界で生きていこうと思ったのに!セイとナガレと一緒に、あの流星街から抜け出て、全うな仕事をして!!それをなんでだよ!?

くん…?」

傍目からでもわかるほどきつく唇をかみ締めた俺を差リアさんが心配そうに伺った。俺はやっとのことで唇を噛むのをこじ開けて彼女に向かって言った。

「すいません…少しでいいんです、一人にしてください」
「ええ…して欲しいことがあったら、すぐに呼んでね。隣の部屋にいるから…」
「…ありがとうございます」

かたくなに下を向いて震える俺を一瞥してすぐに部屋から出て行ってくれた。俺は力任せにベットを叩いた。

「…ふざけんじゃねぇよ」

呟くような叫びは誰も聞かない。


それから暫くして、夕食を持ったサリアさんがドアをノックして入ってきた。俺は少し赤くなった眼をしていたがサリアさんは何も聞かなかった。サリアさんが持ってきたのは固いパンとホワイトシチューだった。サリアさんもベットの隣に腰掛けて自分の分の夕飯を食べ始めた。必要以上に俺の補助をする気はないらしい。ああ…っていうか、マジでここって鋼の錬金術の世界なのか…?やばいな、あんまり【鋼】って真面目に読んでないんだよな…俺が現実世界に居たときって何巻まで出てたんだっけ?アニメをちょこちょこ見たりしてたけど…あ〜…最終回とか見逃してたしいまいち全体の内容を覚えてないし…。

「いただきます」

夕飯は美味かった。凄く久しぶりに家庭料理を食べた気がした。流星街ではそんな美味い飯食べれなかったし、ハンターにナガレたちがなった後も、そんなにご飯の味に頓着しなかった。…っていうか、二人が仕事している間に俺がもっぱら食事の用意をしていたりした。つかさ、俺ってどう考えてもナガレたちに養ってもらってたからそのぐらいのことをしなくちゃ申し訳なかった。
サリアさんは空になった皿を片付けながら静かに口を開いた。

君、貴方これから行くあてはあるの?」
「……」

行くあて?そんなものはない。ナガレたちがいる【HH】の世界ならばともかく、ここは【鋼】。知り合いなんて一人もいない。俺は沈黙して首を横に振った。

「少しの間なら面倒を見るわ…けれど出来るだけ早くこの場所から出て、中央に向いなさい」

サリアさんは考えるように目を瞑ってから言った。けれど、早く中央へ向かえというのは、俺がここにいるのは迷惑だと暗に言ってるんじゃないのか?

「…俺、邪魔ですか。だったらやっぱりすぐにでも…」
「違うの…そういうんじゃなくて…この村を見て、どう思う?」
「のどかな村ですね」
「そうじゃなくて…人よ。若い男の人、いる?」
「……いませんね」

言われて見て、窓から見える範囲で時々行きかう人は幼い子供や年取った男、女ばかりだ。若い働き盛りの男達の姿は全く無かった無かった。

「ここは戦場に近いから…ここ最近なんだけどね、強制的に連れて行かれちゃうのよ」
「強制徴兵…ってことですか?」
「そう…。息子は、自分から行ったんだけどね。そのほうが少しながら国からの資金が貰えるし…でも」

言い止り、サリアさん弱々しく笑った。
【HH】の世界に居たときのことを思えば安穏とした平和だった。和やかに流れていく時、青い空で雲がゆっくりと風に流されて変化し、やがて消えていく。つかの間の平穏だ。ほんの少しだけ、このままこの時が続けばいいのにと思った。

そして、それは本当に、なんの予兆もなく来た。
モノが倒されたような音が居間から聞こえて、俺はこちらの世界に来てから付ける様にサリアさんに勧められた日記帳から顔を上げた。何の音だ?

「あ、貴方達、突然なんなのッ!?」

サリアさんの大声が聞こえた。ざわざわと何人もの人間がいる気配がする。

「サリアさん?」

俺はドアを開けて居間へ顔を覗かせた。

君!逃げなさい!!」

入り口のところで数名の青い服を着た男達が居た。サリアさんがこちらを振り返って必死な顔で叫んだ。なんだ?逃げる?どこへ?なんで?サリアさんが彼らを止めようと身体を張るが、青い服の男がサリアさんを突き飛ばした。ドンとサリアさんの身体は突き飛ばされて後ろにあったテーブルにしたたか背中をぶつけて蹲った。俺は驚いて倒れたサリアさんの走り寄った。

「サリアさんッ!」
「う…逃げ…」

痛みに少し朦朧となったサリアさんが言い募る。俺はサリアさんを抱き起こしながらやっと男達の姿をちゃんと見た。衿の高い青い服。それは、ただの服ではなく、軍服だった。軍かッ!!俺は弾かれたように立ち上がる。この場は逃げなければならない。だってさ、徴兵だよ?徴兵。…そんなものに捕まってたまるかよ。俺は自分部屋へと駆けた。

「逃がすなッ!」

机の上に足を懸け、窓枠から逃亡を図るが後ろから伸びてきた屈強な男の手に床へと引きずり倒された。背中を床に打ちつける。鈍痛を感じるが、この程度の痛みならよくセイやナガレにやられていた。凡人の身ながら、打たれ強いのは俺の数少ない長所だ。もちろん、念を使ってこられたら一瞬で致命傷を負うが。俺は素早く立ち上がると男の顎にアッパーを食らわした。顎の先端を上手い事捉えると脳みそがシェイクされて意識が一瞬飛ぶ。男が倒れたのに、もう一人が驚いたように目を見張った。俺は「へへん!どんなもんだい!」みたいなもんで逃げようとした。呆気に取られているうちに逃げるが勝ちだ。【HH】ではひたすら逃げる技を磨いた俺だ。トヤッア!と窓枠に手を掛けてと外へ出ようとした俺の耳元をチュンッ―…!と小気味いい空気を切る音がした。え?と、思う間もなくパリン!と窓ガラスが割れた。ガラスの破片が俺にまで振ってきて反射的にガラスが瞳に入らないように目を瞑った。その隙に再び俺は軍人によって窓から引き下ろされて縄を素早く両手両足にかけられた。身動きが取れない。

「離せッ!」
「押さえろッ!!」

それでも往生際悪く暴れて逃げようとするので、床に飛び散ったガラス片で露出している腕の部分が切れた。軍人の一人、恐らく今この家にいる五人の中では一番上の階級であろう軍人のおっさんが床に押さえつけられた俺を見下ろした。冷たい目だ。セイやナガレよりは怖くない。あいつらが時折する目はもっと冷たく、もっと感情が無かった。

あいつらは呼吸とともに殺人があった。殺人とともに命があった。

「まだこんなところに若いのがいるとはな…あまり舐めた真似をしてくれるな。銃弾の無駄使いをしてしまったではないか」
「……」

……さっき、窓ガラスが割れたのは銃弾か。銃弾…銃弾を避けれるか?…流石に逃げるののしか得意な俺でも無理だ。【念】使えたら当たっても死なないのになぁと思ったが、そんなのはないもの強請りだ。そう思ったら身体の力が抜けてしまった。俺の諦めを見て取ったのか、両脇を支えられて立たされた。

「立ち寄ってみた甲斐が会ったというものか。また暴れられても困る。気でも失わせておけ」
「ハッ!!」

横に立っていた男が腰から銃を抜いて柄のところを俺の後頭部目掛けて振り下ろした。目の前にチカッ!と星が瞬いて俺は意識を失った。

「…だが、戦えるくせに女を置いて逃げるような軟弱者が戦場で生き残れるとは思えないがな…」

最後に聞こえた軍服のおっさんの声はどこか苛立ちが滲んでいた。



++++++++++




ゴトゴトと揺れる汽車の貨物車の中で家畜のように俺たちは身を寄せ合っていた。
この貨物車には俺と同じように強制徴兵が何十人も押し込められていた。皆が地べたへじかに座り沈黙を守っている。空気は狭い貨物車の中で淀み、握りこぶしほどの小さな換気用の窓がいくつか付いているだけだった。出入り口は逃亡防止のために外側から千錠がなされている。
何時間も閉じ込められていれば生理現象としてトイレに行きたくなるものだ。床に開いた穴から外に向って排出する。俺らは、なんだ囚人か?家畜か?人じゃないのか?人への扱いとしては、あんまりなんじゃないか?鼻が曲がりそうな匂い(流星街で慣れていたが久々にかぐ匂いはまた一段といやなものだ)の中で周りには俺と同じように膝を抱えて蹲っているもの、ブツブツと酷い顔色をして意味不明な独り言を言っている男――これから向うであろう地獄へと意識を飛ばしている。
サリアさんは「戦争」と言っていたが、正確には「イシュヴァールの内乱」というのが正確な表現らしい。イシュヴァール…聞いたことはあるが詳しい中身が良く覚えていない。ロイとか錬金術師が始めて投入された戦争…というぐらいしか覚えていない。この東部に広がっている内乱は軍部が動いて鎮圧を図っている。しかし、こちら側の被害は神を胸に抱いたイシュヴァールの猛攻に押されぎみらしい。東部司令部からの一般兵の供給が追いつかなくなって中央からの兵補充を待っている状態だが、中央からの部隊を待つのには汽車で何日間も掛かる。その時間差を埋めるために、東部に近い周りの村から戦えそうな男達が徴兵されているのだ。
骨にまで響いていた振動が止まった。金属の軋んだ音を立てて扉が開いた。どっと新鮮な空気が入ってきて扉の向こうには光があった。

「出ろ」

外からの高圧的な声によろよろと皆が立ち上がってその光を潜る。数時間まともに見ていなかった光に目を細めた。野ざらしのプラットホームに降り立ち、そこから広がっていたのはまだ平和そうな平原だった。だが、待ち構えていた銃を持った擦り切れた軍服を着た兵士が俺たちに一列に並ぶように指示をした。皆は着の身着のままの状態だ。手荷物なんか持っている人間はほとんど居なかった。俺たちの身体を五体を触診した後、俺たちはトラック2台に分割して載せられた。貨物車から降りてきた徴兵の数はざっと見えただけで五十人弱ぐらいだった。これが少ないのか多いのか、俺には分からない。
トラックの荷台には簡易な長いすが対面にあり、詰めながら座らされた。座りきらない人間は当然床だ。俺は運よく座れた。舗装されていない道を荷台に乗って走るというのはケツが痛くなる。
皆無言で、お通夜のような静かさがトラックの荷台を満たしている。二台に一緒に乗った四名ほどの兵士は無表情に、だが疲れた顔をして俺たちに銃を向けたまま降ろそうとはしない。
俺は先発のトラックに乗っていた。後ろから追走していたトラックが途中で道を代えて見えなくなった。補充される場所が違うのだろう。
俺たちはトラックを降ろされると二キロほど歩かされた。前後左右には銃を持った兵士が付き添う。その途中、一人の男がひたひたと忍び寄る戦争の気配についに耐え切れなくなったのか一列から外れて逃げ出そうとした。
――…パンッ!そして乾いた音が発せられ、逃げ出した男の後頭部から血が流れ、倒れ、動かなくなる。俺は人が殺される姿は多くは無いけれど、それなりに見てきたからそれほど思うところは無かったけれど、他のヤツラにとってはそうではなかったらしい。耐え切れないといったうめき声が聞こえ、立ち止まって嘔吐した人間がちらほらといた。歩き続け、ついに野営の一つにたどり着いた。

慌しく動く野営の中、列をなして動く普段着の俺たちへの幾つ者視線が感じられた。「ここで待て」とひとつのテントの前で立ち止まった。兵士の一人がテントへと入りすぐに出てきた。
次いでテントから姿を現したのは青い軍服が眩しい将校らしき男だった。年齢は五十ほど。ところどころ白髪が混じった髪だ。整列する俺たちを胡乱な眼差しで舐めた後、面倒そうに肩を竦めた。

「貴様らは徴兵された。階級は…面倒だな、どうせすぐに死ぬんだ。993部隊と995部隊、999部隊にでも放り込んでおけ」

発した声は以外にも若い響きを持っていた。もしかしたら、実年齢は若いのかもしれない。

「しかし…」
「構わないだろう。書類上は本部で二等兵扱いになってるだろうよ、どの部隊に入れようが訓練も受けてない、覚悟もない人間が生き延びれるとは思えないからな」
「本当にいいんですね…私は知りませんよ、ジャロック中佐」
「ああ、いい、いい。オレの所為にしておけ。貴様ら自分が死ぬ前に、誰か敵を一人でも道連れにしろよ。それが残してきた者への餞になるだろうからな」

……しかし、そうは言われても俺には残してきたものはいないのだ。
俺は何度も言うように薄情なヤツだし、徴兵されたときにしてみてもサリアさんを放り捨てて自分の身のために逃げようする人間だ。自分の身に被害が及ばない限りなら助けてやろうかという気も起きるが、危なそうだったら指一本動かさない。まぁ、これが俺の性格なんだからしょうがない。変えようと思わないし、変わりたいとも思わない。
ナガレもセイも、俺の薄情な性格は分かっていて一緒にて行動していた。というか、流星街で育った連中は特別な仲間意識は持っているものの、やはり一番に考えるのは自分の身のことなのだ。俺にとって、セイやナガレは流星街で俺が生きていくための後見人だった。また、俺はあいつ等にとっては【念】を教えた貴重な人間だし、俺は教えることは出来ても自らが【念】を操ることの出来ない人間だったからあいつ等にとっては脅威ではなかった。だから、傍に居られた。俺があいつらの寝首を掻くことなんてひっくり返っても出来ないだろうし、また、俺が彼らの寝首を掻く理由もない。

野営地から更に必要最低限の荷物を渡されて歩かされた。
俺は999部隊に九名とともに配属された。我々徴収兵に渡されたのは一本のナイフと使い古した銃、損傷の少ない死体から剥ぎ取った軍服、背嚢だった。軍服と言っても青いのではなく、灰色の野戦服だった。それもそうだ。【鋼】の軍服といえば青い目の覚めるような軍服を思い浮かべるが、アノ青い軍服は正装と言ったところだろう。あんな動きづらい堅苦しい格好で戦場に行く馬鹿がどこにいる。あとはへこんだ水筒と携帯食料。中央からの補充物資は補充部隊がバイクやトラックで調達してくれる。部隊はいたるところに散っているために補充物資が中々来ないこともある。その中で何が大事かといわれればもちろん食料と武器だ。軍服が無くとも戦えるが、食料が無ければ餓死をし戦意の低下を招き、武器が無ければ殺される。服などのどうでもいいものは滅多に補充されることはなかった。
999部隊は比較的前線に位置するようだった。元は市街地だったのだろうか、建物がた立つ中を夜の闇に乗じて俺たちは慎重に動いた。息を殺してなるべく気配を消すよう行動する努力は【HH】の名残で残っているのでさして難しいことではなかった。 
999部隊は半場崩れかかった建物の一角にあった。申し訳程度の裸電球を天井に吊った下で、テーブルの上に地図を広げて数人の兵士が小声で話し合っていた。俺たちをここまで連れてきた兵士がそのうちの一人の傍により小さく耳打ちした。

「隊長、補充兵です」
「ん…ああ」

髭面の四十過ぎほどの男が顔を挙げた。ボリボリと不精髭の生えた顎を掻きながら俺たちに眼をくれた。

「オレはジャックモンド=リズナー大尉。この999部隊へようこそ。とりあえず、お前らは999部隊に入った。徴兵だよな?全然軍服似合ってねーし…。軍の仕組みは分かる?分かんないよな?説明するしかねーか―…999隊は俺が一番上で、その下に三小隊あるんだわ。ギヨ=カロン隊、ラウル=ベールヴァルド隊、シスモンド=ヘダー隊。俺は大体ギヨのとこで指揮してんだ」

徴兵されたものはみんなあまりジャックモンドの話を聞いてなかった。皆が疲労困憊してふらふらしている。俺はそんなにも疲れてはなかったが、軍色を帯びてきた取り巻く環境が怖かった。反応の薄い俺たちに困ったようにしながらジャックモンドは「…ま、しゃーないか」と呟くと「左から三人ずつ、ギヨ、ラウル、シスん各部隊に配属な」と適当に決めた。

「今日はもう寝ちまえ。明日からは地獄が待ってるしな」

犬を追い払うようにシッシと手を振られ、俺たちは背中を押されてひとつの部屋へ押し込められた。雑魚寝していたがきっちりと暗幕が垂れて照明の無い中では中々寝付けなかった。それでも、いつの間にか眠りに落ちていたが。
翌日、乱暴に起こされた。起こすにしたって足で軽く蹴ることないと思う。声を掛けて身体を揺すってくれればいいものを…固いパンを食べて、喉を温い水で潤す。黙々と食べていると兵士が顔を出した。

「ベールヴァルド隊のやつは、行くぞ。付いて来い」

俺だ。俺が立ちあがると他に二人ばかりが立ち上がった。なんとなく足並みを揃えて部屋を出た。

「…オレはアーサー=バロール。あんたらは?」

そばかすを持つ赤毛の青年が小さな声で聞いてきた。

「俺はだ。宜しく」
「…グレン=イェールオース」

隣の銀髪っぽいくすんだ眼鏡の男が言った。インテリっぽい。戦場ではなく、弁護士とかデスクワークに居るのが似合っているようなひょろりとした細身の男だ。俺も含めてだが、三人とも顔色が悪かった。
椅子の上に肩膝を立てて、すわり、顎にライフル銃を持った三十代の男が居た。体は鍛えられているようで屈強だ。刈り込んだ白髪と首に巻いている赤いバンダナが特徴的だった。俺たち三人に気が付くと男は顔を上げた。

「おう。お前らが新兵かい?オレはラウル=ベールヴァルドだ。階級は軍曹」

明るい口調だったが目は暗く沈んでいた。俺たちを見てはいるが、快くは思っていない、そんな感じだ。俺たちみたいな一般人が突然戦場に放り出されたって足手まといになるのが関の山で使い物にならないだろう。

「―…まぁ、一週間か一ヶ月でも生き延びたら名前覚えてやるから名乗らなくていい。覚えたって、無駄だからな」
「…」

直接的に、お前たちみたいなヤツはすぐに死んでしまうと言われた。身体が強張るのが分かった。

「ラウル軍曹、なに脅かしてるんですか…」

ベールヴァルド軍曹の横に立つ兵士が呆れたように言った。

「本当のことだろ?」

薄く笑うとベールヴァルド軍曹は胸ポケットから煙草を出すと一服した。煙がたなびく様を俺たちは直立不動のままで居るしかなかった。煙草が半分ぐらいになると軍曹は立ち上がった。煙草は銜えたままだ。

「んじゃ、今日も行きますか。あーあ、しばらくカマ少尉の顔見なくていいかと思うと清清すんね」
「軍曹!上官への発言は控えてください…あ、君達、これ、バンダナ。うちの隊の目印なんでどっか身体につけておけ」

手渡された赤いバンダナ。そういう兵士は右腕につけていた。オレは左腕に巻きつけた。アーサーは頭に巻いて、グレンは頭をすっぽりと覆い被った。
ベールヴァルト軍曹の指揮する隊までは距離があるらしい。外へ出て、歩かされた。

「俺がリズナー中佐から預かった兵士はお前ら入れて…何人だっけ、ウーゴ?」
「……十五人ですね。私も含めて」
「十五人かぁ〜…十五人らしい。毎日変動するから、すぐ分からなくなっちまうな」
「そうですね」
「リックのヤツは生きてるんだっけ?あれ?死んだ?」
「耳が無くなっただけですから…まぁ、平衡感覚がちょっとアレになりましたけど、使えますよ。まだ戦線離脱はさせません」
「ふん…」
「んじゃ、今日も元気にヒトコロセ」

なんの呼び動作も無くベールヴァルド軍曹が短銃を抜いて建物の上へと発砲した。短い悲鳴が上の方から聞こえた。なんの呼び動作もない、見事な腕前だ。

「あぶねーな。朝っぱらから」
「…早く隊に合流しましょう」

ウーゴは何事も無かったように先を急かした。俺は軍曹が発砲した方向に眼を凝らした。何も見えないが、悲鳴がしたことから誰かがそこにいたのだろう。俺は気が付かなかった。気がつけなかった。じっとりと、手に汗が滲んだ。気を張った。
十五人という隊は皆が赤いバンダナを見える場所につけていたのですぐに分かった。遠くでこちらに気が付いた一人が手を上げた。

「軍曹ー。お帰りッス」
「おう。こいつら、新入り。徴兵。使えない」

親指で後ろの俺たち三人を指差して軍曹は言って首を振った。まぁ、その通りだから俺たちは黙って俯きがちにしているだけだった。此処らへんは瓦礫が多い。999部隊が居たところは建物の損傷はこれほどではなかった。崩れかかっている崩壊している建物ばかりだ。

「そうなんスか…本部の方は兵役のやつ回してくんないんスかね。ヒデー」

がっくりと肩を落す男は野戦服の腕の部分が無かった。腕はあるが、袖を切り裂いたのか長袖の野戦服がノースリープと化している。あれはあれで肩の部分が動かしやすそうだ。

「名前、聞いたんスか?」
「いや。聞いてない」
「うわ、それもヒデー」

笑いながら、男はこちらに顔を向けてじろじろと俺たちの顔を覗き込む。

「黒髪黒目って珍しいね。あんた、シン国の人?」
「え…俺、ですか?」

話しかけられてビビル。黒髪黒目は珍しいのか?…まぁ、確かに今のところ黒髪黒目の東洋系の顔立ちの人間を俺はこの世界で見ていないが…。けど…ロイだったか、あの男は黒髪黒目だったはずだ。俺は視線を彷徨わせて目の前の男を見た。卵の黄身みたいな金髪を頭の上で結わいてる。所謂、ポニーテールというやつだ。覗き込んできたのは青い目で、典型的な外国人だと思った。

「シン国ではないです。…俺もよく分かりません」
「ふーん…いろんなとこの混血?名前はなんつーの?」
「……、です」
、ねぇ…。やっぱ、名前も珍しいんね。発音しにくい…で、残りのアンタラの名前は?」

二人がぼそぼそと名乗った。

「うん、覚えた。にグレンにアーサーな。銃は使える?ん?使えない?まぁ、普通はそうか…銃出してみ」

言われたとおり銃を出す。構造がいまいち分からない。

「…まぁ、初心者にはいいんじゃねーの。安全装置を外すの、忘れるなよ。後は狙って引けば当たるさ、たぶん」
「おうおう、うちんとこのエースは言うことがカッコいいねー」
「オメーのサブマシンガンが火を噴くのはいつだよ、おい!」

にやにやと笑ってヤジが飛んでくる。その雰囲気についていけずに俺たちは途方にくれる。銃は撃ったことがない。卑怯な体術には自信があるんだがな、主に、攻撃を回避するのに。

「…そんなオレらを地獄は待ってるぜ。リズナーのおっさんからの命令だ。俺たちは東にさらに一キロ動く。先に敵情視察だ」

軍曹が言った。ピタリと話が止まる。

「待ってくださいよ、軍曹。それって俺たちだけなんスか?」
「ああ、オカマ少尉はオレのことが嫌いらしいからな」
「あ〜あ、曹長がカマ男を振るからですよ…オレらがいつもいつも危ない橋を渡らせられるんだ」

金髪の男は「はぁー…」と大仰にため息をついた。他の連中も苦笑いを浮かべながらも見に纏う空気がどこか張り詰めた。十五名の人間が先に敵情視察…なんかよく分からないが、999部隊より先に東に動き、後方から追う999部隊に降りかかる火の粉を見つけろってことか?いや…危ない橋、と言うからには火の粉を見つけるだけでなく、払えってことなのか?

「行くぞ」
「yes sir.」

俺らは何がなんだか分からないまま、恐々として彼らの後に続いた。もっぱら移動は徒歩だった。セイについて毎日歩き回っていたから、歩くのは苦にならない。
そして俺は歩いていく。ずっとずっと。立ち止まることを許されず。
モノクロの世界に巻き込まれて。


++++++++++


散発的に起こる小競り合い、何時だって張り詰めた空気の中を移動する。
俺の感覚ではアラブの人間が着ているような服を着て、頭をターバンで覆い隠した男たちがやってくる。印象的なのは顔を覆おう中から唯一見える瞳が赤いことだ。紅い目というのはアニメや漫画のキャラによくいるが実物を見ると凄い色だなぁと思った。アジア人の主が黒目だからなおさら色のある瞳に対して?彼ら、イシュヴァール側には銃はあまり流通していない。最初の遠方から来る時は銃で牽制できるが、銃倉が尽きてホンの短い間に彼らは差し迫ってくる、半月の反った剣。俺は避ける。避けて、サーベルを抜く。
幅圧の半月剣には西洋風の細身で片刃のサーベルは頼りない。俺は出来るだけ上から押される力を滑らせる。そうしなければ刃が折れる。繰り出される剣圧を避けて、隙を突いて剣を突き刺す。
狙う場所はどれも致命傷のところだ。急所。ナガレに教えられた人体の弱いところ。俺は無心に剣振るう。避ける、流す、突き刺す、掠る、切る、考えることなく体を動かして避けて避けて避けて、最後には俺が殺す。
何も考えずに目の前の邪魔なものを動かなくさせる。俺が始めて人を殺したのはこの世界だ。【鋼】の世界のイシュヴァール内戦。思えば、【HH】のころ、俺はナガレたちが人を殺すのはいつも見ていたが、俺自身が人を殺したことは無かったのだ。初めてこの世界で人を殺したのは…――いつだったか?すでに時間の感覚は失われきている。かなり昔のことのように思える。たぶん、本当に昔のことなのだろう。殺すこと事態には抵抗は無かった。でも、少しだけ汚れた赤い手で、他人の血がキモチワルイと思っただけだ。そして、それ以外のさしたる感慨を抱かない自分が、他人に対してかなり無関心であることを改めて実感した。【HH】で流星街で暮らしていたことを思えば、俺が手を赤く染めるのは遅すぎたくらいなのだろう。セイやナガレが俺が人殺しになったと聞いたらどんな顔をするだろうか?…たぶん、「へぇ」「だからどうした」と、それだけだろう。あいつらは、いつだって殺して生きてきたんだから。まぁ、アイツラと一緒に生きてきた間に誰も俺が殺してなかったことには自分でも意外で驚きだ。あまりにいつも人を殺す場面を見てきたもんだから、自分もすでに人殺しを体験したことがあるのかと思っていた。
後ろから襲い掛かってきた屈強なイシュヴァール兵を胴を切る。彼らは大柄な身体を持つ男子が多いので振りかぶる時の無駄な空きが狙い目だ。骨の無い柔らかなけれど筋のある肉を絶つ感覚。ざっくりと、腸にサーベルが食い込むイメージ。そしてそれは、現実。前かがみになった頚動脈に剣を添わせる。
ヴシャァァーーー
吹き上がる赤い血。まだ生暖かい返り血が顔に跳んだ。キモチワルイ。

「引き上げるぞ!!」
「yes,sir」

俺は掛け声に誰よりも早く反応すると脱兎の如く逃げ出す。…――そう、たとえ相手に有利に立っているときでも俺は「引く」のではなく「逃げる」のだ。
野営地に戻ると、俺は准尉(彼は先日また昇進したはずだ。今ではジャックモンド=リズナー大尉の代わりに999隊を引き継いでいる)…いや、ベールヴァルド少尉に呼び出された。
最近、イシュヴァールの抵抗が激しくなった。ベールヴァルド少尉の部下も、多く死んだ。俺は生きている。殺して、生きている。

「失礼します」

テントの中に入ってすぐに形ばかりの崩れた敬礼をする。

「おう。来たな。今日もご苦労さん」

テントを潜るとベールヴァルド少尉の日に焼けて、落ち窪んだ瞳、眼光だけが射抜くような鋭さがあった。兵士は皆こんな目をしている。きっと、俺もそうなのかもしれない。軍人特有の座った眼。誰も信じないような眼だ。ベールヴァルド少尉がテントの奥で片膝を立てた状態で銃を体重を預けてと座っている。いつでも、彼は銃か剣を持っている。武器を肌身離さない彼を臆病者という無かれ。これも一つの戦場でのあり方だ。病気だ。武器が近くになければ安らぎを覚えられない。
俺は彼の前に膝を胡坐を付いて座った。ベールヴァルド少尉は煙草を吸いながら話しだした。

「…早いもんだな、それに、可笑しなもんだ。お前が来て三年。生き残るなんてな…」

運が良かっただけだ。戦場では運も実力のうち。隣で銃を構えていたやつが脳漿を飛び散らせて息耐えた様も見た。腹から飛び出た腸を必死でかき集めて腹に収めようとしていた半死の男も。自分で自分の指を一本ずつ食いちぎっている狂った男もいた。
母を呼び、恋人を呼び、時に神の名を呼びながら死んでいくもの。
俺は今でも臆病者だ。人と殺し合いを演じているときは、全てを遠くから俺の一部が見ている。適当な言い方が思い浮かばない。どちらかと言うと、殺し合いを演じているのが俺の一部で、傍観しているのがそれ以外の俺だ。戦う前と後は俺はいつも震えている。怖くて、殺されるんじゃないかと怯えて。何時だって逃げだしたくてたまらない。今この時だって。ベールヴァルド少尉の持つ銃が恐ろしい。逃げないで敵に向っていっているのは、前門の虎、後方の狼の状況だからだ。敵を前に怯み、逃げ出そうとしたら味方に殺される。ならば、敵に向うしかない。
戦争は愚かだ。殺して殺して殺すことしかしない。生産性はあるのか?

「俺も不思議です。なんで俺が生き残ってんのか」

俺よりも遥かに戦争に慣れていたものが死に、俺みたいな凡人が生き残った。もちろん、タダで生き残っているわけではない。切り裂かれた皮膚、爆風に爛れた火傷の跡、銃弾が貫通した痕跡、俺の身体には幾つかの傷がある。それは、戦場の勲章だと、誰かがほざいたら俺はそいつを笑ってやる。
戦場の勲章?馬鹿なことを言うな。これはただの傷でしかない。俺を死に至らしめることが出来なった出来損ないだ。
ふん。と、少尉は鼻を鳴らした。

「だろうな、俺は三日も立たずに死ぬと確信してたんだがな…外れた」





―――…三年前、俺たちは東部へと進行した。
東部広域にわたるこの内乱は、範囲が広いことがまず第一に挙げられる。そのため、広がる環境は川、森、山、荒野と大きく変わる。俺たちが向った先の密林地帯にはまるで見計らったようにイシュヴァール兵がいた。
俺たちは捨て駒だった。最初から。この世界はそれほど軍事危機は発達していない。俺が知る現代兵器は存在しないのだ。ハイテク化された、所謂無人の戦争ではない。大規模な戦争ではないのでもちろん戦車などは使われていないようだ。もっぱら、白兵戦が主流だ。彼らイシュヴァール兵は我々よりも土地の利に長けていた。仕掛けられていたトラップに苦戦しながらも俺たちは戦った。元から十五人の俺たちが彼らより優れている点といえば銃火器があることぐらいだったが、俺たちみたいな小隊では無尽蔵に弾丸を確保出来ているわけでもない。銃という格段に優位な武器を持っていようが、弾切れは起こる。そして、彼らに合わせたよう刃と刃の戦いへと途中から移行する。原始的な戦いだ。

俺が持っていた武器は銃、サーベル、短剣。この三つ。一つ目はてんでお話にならなかった。何度もぶっ放せば音で敵に場所を教えることにもなるし、弾がもったいないので二回ほど道中に動かない木を標的として撃つ練習をしただけだ。それで敵に当てろというほうが可笑しい。動く相手に照準をあわすだけでも一苦労だった。

「わぁあああああぁーーーー!!!」

自らを鼓舞する声ではなく、悲鳴をあげてグレンが銃をめちゃくちゃに撃った。
馬鹿が、そんなに銃を無駄使いしてどうするんだ!と思ったが、それは俺も同じだ。無言で照準を合わせているつもりだが、彼らは存外動きが素早く木々に隠れながら間合いを詰めてくる。俺の撃った弾はどれも宙を切ってどこかへ飛んでいっているだけだ。
カチカチと軽い音を立てて銃は使い物にならない鉄のガラクタへと変わった。どうする?――…捨てろ。俺は俺に向ってきた相手に鉄の塊を力いっぱい投げつけた。銃弾よりも、こっちの方がよっぽど距離感がつかめる。次はどうする?――…逃げる?―…どこへ逃げる。逃げ場はないこの人数だ…―じゃあ?――…戦うのか?俺が?…―…無理だ。死ぬ――…しかし、戦わないでも死ぬぞ―…死にたくない…見ろ、やつはお前を殺す気だ――…―怖い―…死ぬのを待つのか?…―どうする―…じゃあ……

…――生きて、逃げる。

一瞬でめちゃくちゃな思考が頭を巡り、ブチ切れだった糸が一本の歪な線となって繋がる。生きて、逃げる。
ただ、それだけが明確な一つの決意として残った。後の思考は真っ白だ。イシュヴァール兵の被る布のターバンの下、彼の瞳が鋭く俺を見た。俺は彼の振り切る太刀筋を眼で追ってそれが首を狙っていることに気が付き、横に転がった。戦場はある意味、卑怯な戦い方がものをいう。それは戦場においては卑怯であって卑怯でない。場所にあった戦い方だ。俺は怖くてたまらなかった。【HH】の時は俺が自ら動くことは無かった。最低限、セイとナガレが安全を保障してくれた。一人で、自分の力で生きていく自信が【世界】でない。俺は弱虫な故に卑怯だ。俺は眼前の土をイシュヴァール兵の顔に向って投げつけた。本来ならもっと粒の細かい砂の方がいいのだろうけれど、このあたりの土は暫く雨が無かったようで土はパラパラと水気が無い。兵士の顔、唯一ターバンで覆われていない目元に土が当たる。彼は咄嗟に目を瞑って土が目に入るのを防ごうとしたが若干入ったようだ。太刀を持っていないほうの手で目を擦るしぐさをしようと動きが一瞬だが止まった。

――…今しかない。俺は腰に嵌めていた短剣抜いた。急所はどこだ?

俺はそこに向って短剣を振りかざしたが、相手は片目のみを開いて俺の攻撃をかわした。避けられたッ!?チャンスが失われた。どうする。どうするどうする、死ぬ。殺さなきゃ、逃げなきゃ。イシュヴァール兵の男が片目のまま俺に向って剣技を繰り出す。俺は避ける。避ける避けて避けて避け続けて…それだけをした。真っ白な頭で反射の全てを避けることのみに集中する。俺から攻撃をするというタイミングがよく分からなかった。避ける俺を相手は痺れてきたのか執拗になる。俺も焦り始める。シュッと衣服の胸の辺りが着られた。服を一枚切っただけでそれは皮膚までは達していない。俺はずっと逃げ腰だ。太刀を受けることもせずに逃げの一手だ。
ドンッ―…!イシュヴァール兵の肩から血が噴出した。咄嗟に俺はその銃弾が発せられた方向を振り返った。遠く離れたところからエース…これは通称だ。本名はスタファン。木の上で寝そべるようにして彼が銃を水平に構え、鷹のような鋭い眼差しで銃を撃っている。俺は素早くイシュヴァール兵を見やると、今度は右足の太ももから血が噴出した。押し殺した悲鳴をあげてイシュヴァール兵が膝を付く。
その状況に疑問が過ぎった。スタファン…エースほどの腕があれば一発で頭部を射抜くことが可能だろうに、何故、回りくどく肩、足と打ち抜く?俺はもう一度彼を振り向くようなことはしなかった。――…俺に殺せということか?イシュヴァール兵は利き腕から落ちた太刀を左手に持ち替えている。痛むだろう足で弱弱しくも立ち上がり、足元の地面が血に染める。
俺は…その時の俺の手は震えていただろう。自分がこれから行うことに対してか、それとも、目の前の脅威が消え、逃げ出すことが出来ることにか。

俺にはもう覚えは無い。柔らかい肉を絶ち、骨に当たる剣の感覚を、感じただけだ。真っ白な感覚の中で繰り返す。
――…繰り返す繰り返す。繰り返すのは向ってくる敵を交わし、止めを刺すこと。そして、「退避!」の命令が出たら誰よりも早く逃げ出す。安全な場所に。そして俺は震えだす。遅れて襲ってくる恐怖(しかしそれは、人を殺した恐怖ではなく、俺に向ってきた敵たちへの恐怖)に身を抱きしめる。だがそれも、最近では三分ほどで収まる。次に身に襲ってくるのは安堵。どうしようもない安堵。ああ、人間の精神というものは簡単に可笑しくなるだろう。恐怖には留めがない。無限大に膨れ上がる恐怖、恐怖、恐怖。強い敵にぶち当たると、逃げ出したくて溜まらない。何十人ものイシュヴァールの人間を殺した。殺せた。俺の方が最終的には勝ったのだ。屈強な歴戦の戦士に。
強い敵に無傷で勝てることなんてない。太刀が俺の服を切り、皮膚を切り裂くたびにその痛みに俺の意識は沸騰する。痛い!痛い!戦いの最中は痛みを無視する。無視できるほどの痛みをやり過ごして、戦い終わった後は無様に転げまわって痛みを訴える。言ったはずだ(いや、誰に言ったことがあるんだ?)、俺は痛みが嫌いだと。耐えられないと。
仕掛けてくるのなら、それは敵だ。敵は殺す。殺さなければ殺される。
殺されることに、終焉を迎えることに、なんの意味がある?意味など無い。この一分が何日のように感じられる戦争の中で、仲間が死んでいくなか、敵を殺していく中、腐った死体を見た中、自分もさっさと死にたいと思ったことは無いのか?いいや、ある。あるに決まっている。例えば身体に残る傷跡。それが俺の身体に浮かび上がるたびに俺は痛みを長引かすなら死にたいという思いが掠めた。だが、実際に俺は死ぬことすらしたくないと思う臆病者だ。痛みは消えてなくなればい。けれど、死にたくない。死ってなんだ?隣で人が死んでいく、死んだ死体が転がっている。それは人だったもの。肉の塊。

切り裂かれた皮膚―…数え切れない白く引き攣れた傷跡が身体のあちこちに残る。首から上に残っていないのが面白いところだ。わき腹を一センチほど深く横切られたときは盲腸が飛びでるんじゃないかと思った。
爆風に爛れた火傷の跡―…左足の太ももの一部が熱によって白く変色した歪なのケロイドが少し盛り上がりを見せている。この時ばかりは火に熱に対して原始的な恐怖を感じた。醜い痕だと、時たま自分で見ても思う。直りかけの時のあの掻き毟りたいかゆみは生涯忘れることは無いだろう。だが、熱風を受けただけなのが幸いで目も当てられないほどの赤く火傷の跡が残っているわけではない。
銃弾が当たった痕跡―…コレも何箇所かある。一番死ぬかと思ったのは右の心臓付近に貫通した銃弾だ。心臓を打ち抜かれたのか思い、危うくショック死するところだった。右足に当たった銃弾は当たり所が悪く肉に食い込んでしまったので自ら指を突っ込んで銃弾を出した。あの痛みは脳の血管が幾つかぶちきれるほどの痛みだった。痛いのは大嫌いだ。痛みなんて出来れば感じなければいい。無痛な人間になりたいとすら思った。痛み、痛みに耐えることは出来ない。
恐怖に怯え死にたくない、あるいは恐怖から逃れるために死にたい。この対局した感情はその局面になればなるほど真逆の感情をより強く表面へ出る。その矛盾。

狂いが生じる。
戦場で正気は罪だ。正気でいることの方が狂っている。狂っていることこそが戦場での正気。
だから俺は狂っている。狂わずにやっていられるか。自分以外は皆形ある「人形」だ。その裏側に「人」を感じてはならない。人ではなく、無機物だったらどんなにいいか。人間は恐ろしい。

俺は狂う。狂いの中で正気を保つ。狂気こそが正気。
我ながら、どうしてこうも生に執着するのか分からない。でも、醒めた部分ではいつ生きようが死のうがどうでもいいとも思っている。自分で自分が分からない。でも、自分をそれほど分かりたいとも思わない。
戦場は人を変える。ただ、それだけは言える。感情がある分に扱いにくい生き物だ。

「――…色々、ありましたね」

走馬灯のように巡るこの三年間の少しの記憶。
俺は凡人か?一般人か?俺はそうでありたいと願っていた。変わりたくないと。俺はちょっとばかり戦場を体験しただけのただの人だ。多少の狂いは抱いてしまっているけれど。
ここが地獄か?と聞かれたらそうかもしれない。と俺は答える。地獄っていうのはどんなところか分からない。
ここではさまざまな感情が爆発し、平坦になり、感覚が狂ったようになって、俺を翻弄した。俺は自分の殻に篭って、そして考え続ける。俺はどうしてここにいる?なんで人を殺してる?俺はどこからきた?


「ああ、あの時から生き残ってるのは、オレとお前と、スタファン、ダット、それにこれまた意外なことにグレンだけとはな」

そう、意外なことにグレンも生き残っている。かなり神経質なところは変わっていない。あいつも半分狂っているから。最初に俺とグレンと一緒に配属された赤毛の少年(名前は忘れた)は数日後に死んだ。
あと、ベールヴァルド少尉の補佐をしていたウーゴは両足が無くなったものの一命を取り留めたので一年前に戦線を離脱した。羨ましいことだ。きっと、今頃は故郷に帰っているのだろう。もしかしたら、両足を機械鎧にしていたりするのかもしれない。戦争ってのは不思議だ。命が軽くてあっけない。戦場に立つ人間はほんのちょとの運によって生き残る。けれど、運は実力と背中合わせでもあって、俺は実力があるとは思えないが、他人から見ればそれなりに実力があると見られているのだろう、三年生き延びたというだけで。運に任せて、他人に任せて生き残っているわけでもない。
俺は戦闘のプロになったか?いいや、俺の実力は所詮は付け焼き刃に等しい。相手がそうであるように、所詮は素人に毛が生えた者どうしの幼稚な戦いに過ぎない気もする。ただ、戦っている本人同士はどうしようもないほど真剣に命の取り合いをしているけれど。

「クッ、貴様とは長い付き合いになるな。ところで、伝達兵からスタファンを准尉に、ダットとグレンを軍曹に、とな」

ぴらり、と懐から巻かれた紙を取り出してベールヴァルド少尉が俺の足元へと投げて寄越した。獅子と六芒星の紋章が背景に描かれた生真面目な文字が並んでいる。…とは言うものの、俺はこの世界の文字がすらすらと読めるわけではない。俺の世界でいうところの英語と同じ文字だが、生憎すらすらと読めるほど上等な頭は持っていない。何故かこの世界の言葉を話すことが出来るだけでも恩の字だ。読めぬ字面を眺めていると少尉は口を開いた。

「しかし―…。お前に関することは一つも書かれてはない。この最前線、三年生き残れたら此処では古参だ。人の入れ替わりも激しいしな…ダットとグレンは軍曹に。は一体いつになったら昇進できる?忘れたようにのことは一度も書かれていない。何故かな?」

何故かな?
そんなのは簡単だ。俺は暗く笑った。

「俺が生まれた戸籍はないですから、当然です」

あるわけが無い。俺が生まれた記録。俺が存在する記録。(存在?ああ、嫌な言葉だ)
流星街という場所で俺の身分は無かった。いないものがいる。いるものがいない。

「……そうか」

返した書類をベールヴァルド少尉はぽいっと後ろに放り投げた。特に俺の出自に興味はないようだ。まぁ、聞かれても困るがな。この戦況下、俺のような臆病で逃げることしか考えていないやつでも敵を殺すことが出来る。敵を一人でも多く殺すために、俺の身分は問われない。この部隊にいる名無しの兵士というところか。
ベールヴァルド少尉は銃に顎を乗せた。皮肉にあざ笑うように彼は口角を吊り上げた。狂ったような見ているものを不快にさせる笑い方だ。

「さて、。戦況が変わる――…人間兵器が投入される」

身体がピクンと震えた。

「錬金術師…」
「そう、忌まわしき術を使う連中だ」

――…ああ、ついにこの戦いに終止符が打たれるのか。俺は嬉しくなって笑った。ベールヴァルド少尉と同じ、歪な笑いだった。


++++++++++


この戦いは何故起きているのか?戦争の責任は誰にある?
そういうことを一般兵に過ぎない俺が考えても答えはなかなかでない。イシュヴァールの内乱は軍の将校が誤ってイシュヴァールの子供をを射殺してしまったことが火をつけたとされる。それから始まった内紛は東部全域に広がり加熱の一途を辿る。…どのくらいの人間が死んだのだろうか。敵、味方関係なく。
人を殺すことは間違っている。そんなことは知っている。何故か?その答えをこう出した。
――…死んだ命はどんなことをしても戻ってこないから。ありがちな答えだ。
足掻く。オレは醜くてもいい。死んだら終わりだ。終わりは嫌だ。
サーベルを抱えて廃墟のビルの上で見張りをしながら空を見上げて星を眺めた。星の数ほど人が居るわけないが、カメラのフレームのように指で四角を作って空の一角を囲ってみる。このぐらいの人は余裕で死んだだろうか?千だか萬だか。
この戦争は仕組まれたものだ。――…ウロボロスのものたち、あー…エドの父親による賢者の石の創作のため?…いかん、記憶が朧だ。そもそも、【鋼】はあまり読み込んでいなかったのだ。
えー…イシュヴァール内乱関連の覚えていることはなにがある?ロイがエドの金髪の幼馴染…名前なんだっけ?…―…ああ、エンヴィーだっけ(いかん。人物名すら忘れている)の両親を殺したんだったか?…いや、スカーが殺したんだっけか?
ああ、アニメと漫画が混ざっている。どちらが本当の真実なのか。まぁ、俺が本編の人間と関わることは恐らくないのだろう。全く関係のない場所で生きていく。俺は丸くなり、壁には無数に弾丸の跡が刻まれ吹っ飛んだ瓦礫寸前の街を眺めた。夜はゆっくりと明け始めた。

「おお、今日はビーフ缶があるのか!」

食料係りから配布された缶詰のラベルを見て俺は嬉しい声を上げた。

「私の分はやらないからな」
「誰もグレンの分をくれとは言ってねーだろーが」
「肉が喰いたいなら、そこらへんの死体の肉でも食ってみたらどうだい?意外とイケテるかもしれんよ」
「嫌だよ。不味そうじゃんか」

真ん中に薪を焚いて、囲むようにして食事を取る。水と缶詰めが毎日の食事だ。飽きたが文句も言ってられない。缶詰を突いていたグレンがふと、スプーンを止めた。掛けているメガネのレンズの右側は小さな皹が入っている。

「どした?」
「…地面が少し震えた。バイクか車が近づいているかもしれない」
「…数は?」
「いや、一台分だろ。微弱だ」

眼を凝らすと、バイクの姿が見えた。二人乗りをしているようだ。俺たちが警戒して銃口を定める中で後部座席に座っていた者がバイクから降りるとヘルメットを取った。零れ落ちるのは金色の髪。グレンは興味を無くしたように目を伏せた。オレは反対に彼女を見て目を細めた。

「女じゃん」
「ヒュー!美人だね!」

彼女は凍ったような無表情でピシッと敬礼した。

「586隊狙撃兵、リザ・ホークアイです。突然の来訪、申し訳ありません」
「狙撃兵がうちみたいな隊になんのようだ?」
「はい…あの…」

リザ・ホークアイ。俺はじっと彼女を見つめていたが視線をそらして缶に目を落す。なんてことだ、リザ・ホークアイ、鷹の目。【鋼】の世界での主要人物はリザ・ホークアイか…彼女を見れるなんて。
錬金術師が投入されたのだ。もしかしたらこの戦場のどこかにロイ、筋肉質の男、スカーなどなどが居るかもしれない。いや、恐らくいるだろう。…運が悪ければ、戦時のホムンクルスもいるのかもしれない。嬉々としてどこかで血の海を作っていることだろう。あ〜ヤダヤダ、絶対に会いたくねぇな。人外と合間見えたくなんてねぇよ。

「狙撃手か…うちのエースとどっちが腕が上かねぇ?」
「そりゃもちろん、オレッしょ?」

離れた木陰で食事していたはずのエースがひょっこりと誰かの独り言に答えつつ、フォークで俺の缶詰の中から肉を奪い取って口へと放りこんだ。おいっ!俺の飯を取るなッ!貴重な肉を!たんぱく質を!

「おい、なにすんだ!エー…」
「兄さん…!!」

振り返ってエースを怒鳴ろうとしたが、リザがこちらを目を大きくしてみていた。彼女の青い瞳がエースに注がれている。エースは明るく「よ!」とリザに向って手を上げた。待て。今、リザはエースのことをなんて呼んだ?

「「「「兄さんッ!?」」」」

皆が驚いてリザとエースを見比べた。エースに兄妹が居たなんて聞いたこと無いぞ。いや、そんなこといったらほとんどの隊員の家族構成なんてそう知らないんだが。エースは「はいはい」と手で周りの連中を宥めて笑った。

「リザ、こんなところで会うなんてなぁ…大きくなったなぁ…」
「兄さん、一体何年昔のことを行ってるんですか?」
「ヒデー。そのキツイ瞳もますます磨きがかかったな。で、なんの用だ?」
「いえ…兄さんの部隊近くに聞いたもので…挨拶に」
「挨拶だぁ?んなもんのためにワザワザ来んじゃねーよ」
「でも…」

真っ直ぐにエースのことを見つめるリザ。なるほど、こうやって近くで並べてみてみると金髪といい、瞳の色、目元の様子が良く似ている。リザが来た理由はなんとなく察することが出来る。彼女がどのくらいくらいこの戦線にいるのか知らないが、やつれた頬で始終辺り忙しなく視線を泳がせている様子は精神的に少し追い詰められているようだと感じた。まぁ、俺がいえることではないけれど。
よほど後方にいるのではないと戦時の雰囲気は精神に悪い。

「んな冷たいこと言ってやるなよ、お兄ちゃん」
「そうそう。お兄ちゃん」
「よっ!お兄ちゃん!」

周りのヤツラが囃す中、俺とグレンは黙々と食料を摂取した。折角の食事時だ。手を止めてのんびりするのはいいが悠長に食事を何時までもしていられるとは限らない。食べれるときにさっさと胃の中に食料を納めるほうがいい。

「外野は五月蝿いっつの!お兄ちゃんって呼ぶな、オレはテメェらみたいな可愛げのない弟を持った覚えない!」

エースは回りに怒鳴って見せて、リザを見下ろしてふと笑った。ぽんぽんと宥めるようにリザの頭に手を当てて身を屈める。

「リザ。戦場でお前に会えるなんて思わなかったよ。でも、この場所は俺たちの戦場だ。お前もお前の戦場に戻れ」
「兄さん…はい。お元気で」
「ああ、リザもな」

エースは…いや、スタファン・ホークアイは妹、リザ・ホークアイの額に軽くキスを落とした。俺はその様子を横目に、缶の残りを黙々と空にした。

++++++++++

彼らがやってきた。俺たちは離れた場所から彼らを見た。
彼らは果たして同じ人なのか。いいや、人には間違えない。ただ、俺たちのように飛びぬけて非凡にはなれないものたちには遠い者たちだ。
立ち上る灰色の煙が青い空に向けて立ち上る。その晴れ渡った空の下には灰色の瓦礫の山が。

「スゲーな。ありゃあ、同じ人間とは思えねーよ」
「そうだな。俺もだ」

スタファンに頷いてオレは眼下を見下ろす。
彼らは破壊者だ。創造者ではない。
戦場に似つかわしくない正規の青々とした軍服に見に包み。彼ら一群は進む。目の前の全ての創造物を薙ぎ倒し、瓦礫の山を作り、人の死体を踏み越えて、彼らは進む。

――…錬金術師。


又の名を、人間兵器。


「錬金術師…あんな動きにくそうな正装でよく戦えるものだな、そう思わないか?」
「んん。まーな。でも、アレは戦ってるていうか、一方的な虐殺だろ?イシュヴァール兵の誰から彼らを傷つけている姿が見えるか?俺には見えないんだけど」
「そうだな。…、お前、震えているな」
「まぁ…な」

俺は右手で左腕を押さえた。そんなもんじゃ押さえられない震えが起こっている。ぎゅっと服の上から爪を耐えて皮膚に食い込ませる。俺がどうして震えているのかは分かっている。怖いんだ。
どう頑張ってもあんな普通じゃない能力を持った人間の前に飛び出したいと思わない。関わることがしたくない。

同時に少し、羨ましい。あの力があれば、自分が死ぬという確率が少しは減るだろう。



++++++++++


馬鹿馬鹿しい。馬鹿馬鹿しい。馬鹿馬鹿しい。それだけだ。
なんで戦争している?なんで殺し合いしている?生きたいから殺すんだろ?生きたくないならとっとと死ね。殺したくないなら、お前が死ね。無抵抗主義のガンジー?死ね。この場所で「憎しみの連鎖を断ち切って」などと叫ぶ人間がいたら、俺はソイツを殺したくなる。憎しみなんて戦いの場には無い。殺るか殺られるか。それだけだ。誰か、大切なもののために生き延びたい?いいや、俺は俺のために生き延びたい。誰かのためなんて、そんなの結局自分のためだろ?

俺たちの隊にも錬金術師が配属された。配属というか、同行だ。俺たちの隊は最前線を行く部隊なので彼ら人間兵器の格好の舞台を用意できると踏まれたらしい。十名ほどの若々しい青年たち(おっさんも混じっていたが)が固苦しい例の正装を身に纏いやって来た。
薄汚れた灰色の俺たちの中では彼らの制服の色鮮やかさは、青空のように目に眩しかった。グレンと一緒に離れたところから見ていた。というか、グレンは見ているようで見ていない。

「今日はなんだか仲間がたくさんいるな。何か大きな戦いでもあるのか?」
「錬金術師が着たんだよ。錬金術師!知ってるだろ、グレン?」
「ああ…もちろん知っているよ?でも、あれは仲間だろ?錬金術師と関係ないじゃないか」
「仲間、ねぇ…」
。そういう含んだ言い方は止めてくれないか?いらいらすんだが」
「悪い悪い。まぁ、終戦に向けての兵器が投入されたんだよ」
「ふーん、兵器か…どこに兵器があるんだ?私も是非欲しいな」

グレンは人を認識できない。人の顔と名前を一致させることがほとんど出来なくなった。彼が判別しているのは各人が着ている服のデザインだけ。彼が顔を見て判別出来るのはベールヴァルド少尉、スタファン、ダット、そして――…俺だけ。後は全部「仲間」か「敵」の二分別しかもたない。とりあえず、病んでいることには間違えない。しかし隊の中では抜きん出て冷静で頭が回る。最初は血を怖がっていたようだが最近ではへっちゃらだ。血に酔うそぶりさせ見せることがある。戦争を認めなければ、血に酔わなければ正気(正気?狂気の間違えだろう?)を保っていられない。グレンの、レンズに罅が入ったメガネの奥で瞳が半月を描いたように笑うのを見ると、隣で見ている俺でさえ恐怖を覚える。

。また震えてる」
「…五月蝿いな。ほっとけ」

お前の戦っている姿を思い出してビビッてたんだとは言えない。グレンは「そうか」と一言寄越して沈黙した。
軍勢はどこから湧いてくるのかと聞いてみたい。俺らの隊は後方に下がり、敵陣に錬金術を発動させる錬金術師を支援していた。支援と言っても特に出来ることはない。狙撃手が見えにくいところにいる敵を撃ち殺す。下手に近くに行って味方の錬金術に巻き込まれて命を落とすなんてごめんだ。
圧倒的だ。錬金術師たちが持つ力は圧倒的に強かった。武器という道具に頼る人がそうたやすく打ち破れうものではない。
火、風、大地、水、……自然の力を味方につけたような錬金術師の攻撃。ドラゴンの吐く火炎の如く大地を焦がし、怒れる風神の如く竜巻を起こし、山の創造の如く轟こ大地が盛り上がり、貫く雷が如く空より氷の柱が降り注ぐ。

「――…アイツらとは戦いたいとは思えねぇ」

狙撃銃のスコープを覗きながらスタファンが一人ごちた。彼らは俺たちと同じ人間である。だが、俺たちよりも遥かに優れた技を持っている人間だ。錬金術は誰にでも使えるものなのか、生来持って生まれた何か魔力のようなものが必要なのか。俺はそういうことは分からない。練成の公式を理解することで出来る、ということを読んだ気がするのだが、きっと馬鹿な俺にはそんな数式について理解出来るわけも無かろう。天才と名の付くものがたどり着けるソレは、【念】などとは違って脳の出来に左右されそうだ。錬金術は料理と似ている?誰だ、そんなこと言ったヤツは。俺は男にしては料理が作れると自負しているが、そんなもんじゃ錬金術師には成れないだろう。当たり前だが。
彼らが敵を一気に片付けていく。その様子は虐殺に近く、圧倒的な力の前にイシュヴァールの民は木の葉のように無力だった。

「大技ですね。小技が無い。的が小さいものには甚だ不向きですね」
「そりゃあ、相手がわさわさ沸いてくるからだろ?一対一ならそれなりに威力抑えられるんじゃねーの?」
「オレの実家の近くに住んでた錬金術師もどきバァさんは時計とかなら治してくれたぜ。器用だよな」
「直すとかとは違くね?オレら銃担いで戦う人間にゃア分かんねーな。破壊の申し子だよ、ヤツラ錬金術師は」
「お、あそこにに似たやつがいるぜ?黒髪黒目。シン国の混血かな?ほら、も見てみろって。お仲間じゃね」
「だから、俺はシン国の人間ってワケじゃないですよ…」

仲間に言われて俺は渡された望遠鏡を覗いた。
錬金術師の先陣に立つのは若き錬金術師。その青の軍服が彼に与えたのは何か。希望か、夢か、理想か――…傍または、現実か。
彼は幼ささえのこる東洋人の甘い容姿を青白く恐れに歪ませ腕を振るう。飛び出すのは火炎。
その赤き炎は彼の者の意思にある意味忠実で、てんで見当違いなところを荒れ狂った。

「なんだあの錬金術師?狙いが定まってねーじゃん」
「使い物にならねーな。あんな隙だらけじゃ後ろから撃てば一発で死ぬぜ」

軽く笑いながら仲間達が言った。
そうか、お前はまだ慣れていないのか――この地獄に似た牢獄に。
若い彼を視界に映し俺は眼を細めた。リザ・ホークアイを見た時から思っていた。ならば、彼もここにいるだろう、と。
ロイ。ロイのファミリーネームはなんだっけかな?忘れたし。ホークアイは鷹の目で覚えてたけど。あと、筋肉むきむきアームストロングは腕強いで覚えてる。後の人は顔しか分からん。

「…羨ましいけど、羨ましくないな」

俺は望遠鏡を降ろしながら呟いた。

「あぁ?」
「いや、独り言です」

あんなにも強大な力を持っていて、俺は羨ましい。あの力があれば、自分の身を守ることはたやすいだろう。戦場で仲間を守ることはあまり無い。団体で行動するとしても一個人であることには変わりは無い。あの力…あんな力があれば、敵の巨大さに怯えて自分が死ぬ目を見ることはそうそうないだろう、羨ましいことだ。
だが、羨ましいと同時に羨ましくない。あんな力があるくせに、今までどこで何していた?と聞きたい。まぁ、それは弱者としての意見であってやつら錬金術師にだって言い分はあるだろう。来たくて戦場に来たわけではないんだろうし。(だが、ソレは俺も同じだ。それに、俺には自国のためだとかの大義名分すら持っていない)だが、それが分かっていても、彼らが早くに投入されればと思わずには居られない。錬金術師の命を軽んじて(いや、誰の命だって同じぐらい軽いと思っている)いるわけではない。彼らは絶対的に強いし大勢を殺せる。それだけでどんなに一般兵な俺たちにとって楽なことか。
俺が昔見た映画で、かなり心に残った一言が在る。「大いなる力には大いなる責任が伴う」。
確かにそうだ、望もうと、望まざるとあるものはあるんだ。彼らだって人間だ。感情がない冷酷なロボットというわけではない。戦場での感情の扱いはとても難しいものだ。麻痺した精神では恐怖を忘れ、自滅をするかもしれない。現に、むやみやたらと恐怖を麻痺させて一人で敵陣に突っ込んでいった大ばか者がいたこともある。よほど、整然と理論的なロボットの方がいい。戦場に人が出なくなればいいに。
…未来世界ならともかく、この程度の文明社会では無理な話か。

錬金術師の一人と、たまたま話した。レインとか言う若造で俺と同じぐらいの年齢に見える。ただ、やっぱりコイツも西洋風な顔をしているので先日見た東洋人顔のロイの顔が懐かしく思える。操るのは水だそうだ。俺とグレンが戦争が始まって間もないころからずっと生き残り続けていると知ると、濃い隈を作った目を大きく見開いて驚いた。綺麗な青い瞳だった。水を操るのには相応しそうだ。

「じゃあ、さんとグレンさんは…ずっと、この戦場に?」

この錬金術師は意外と腰が低かった。まぁ、錬金術師だからと言って威張られても不愉快だったが。戦場での錬金術師と兵の間には見えない溝があるようでお互いに近寄る素振りはあまりない。この会話は貴重だな、と思った。錬金術師は自らの錬金術のあり方を考えてしまい、錬金術のあり方を見失いそうになっているものをいると聞く。

「そうだな。そういうことになるな」
「……どのくらい、人を殺しましたか?」
「さぁ?覚えてないな」
「覚えてないほど殺したんですか」

レインの目が険しくなった。そんな、人を殺人狂のような目で見ないでほしいな。俺は戦争で人を殺してるんだ。大きな戦争という仕組みの中で推奨される行為をしているだけだ。俺は苦笑しながら答えた。

「そうじゃなくて…こっちだって死に物狂いで殺してるからそんないちいち数えてるようなことは出来ない」

戦場なんて混乱だ。殺したと思ったら隙を見計らって次の相手が次からと殺しあう。
俺はすでにいい大人だ。俺が覚えている計算によれば三十に近い。……例え、外見年齢が二十前後に見える若さでも。
鏡を見て、俺の外見が年をあまりとっていないように見えるのだ。これはあれか、俺が不老不死だとでもいうのだろうか、と一瞬夢物語を考えたのは少し前のことだ。だが、例え不老というのが外見で年月との比較で判断できるのに比べて不死であるかどうかなんて一回死んで見なきゃ分からない。そんな無謀なことはしたくない。死んで、死んだら取り返しがつかない。

「オレは怖いんですよ…殺すの」

レインは目を伏せて膝を抱えた。二十歳を少し越えたぐらいの年齢だが、西洋人の顔だちは大人びて見える。

「っていうか、そんなこと考えてると死ぬのはお前だよ」
「だからって!他人を殺してもいいっていうんですか」

はぁ、と俺はため息を吐いて言った。

「だって、これが戦争だ。俺は人を殺すことは怖くないけれど、自分が死ぬことは怖い。強い相手に向かって行くとき、何時だって恐怖に震えているよ。レイン。殺したくないなら、殺されてやればいい。それで万事解決だ」
「ッ…!けれど、」
「死にたくないだろ?」

それが普通だ。

「死にたくは無いです。オレは錬金術師をこんなことに使いたかったわけじゃない。……こんな戦争に使うために錬金術を学んできたわけ字じゃない……好きで、戦場に来たわけじゃない」

それは、俺もグレンも同じだ。俺たちだって徴兵されてきたのさ。自分の意思で戦場にいるわけじゃない。

「守りたいものはあるか?」
「………あります」
「そっか。俺は俺しか守りたくないよ」
「そう、なんですか?親とか…」
「どうでもいい。俺は俺さえ守れれば」
「……」
「最後に自分を守るのはやっぱり自分自身だと思わないか?誰かのために身を挺して守るとか、そういうのは自身がその他人を守りたいと思う自己満足のためにあって、それは神聖かもしれないけれど、自分の保身を考えてなにが悪いんだ。その誰かを守りたいという心を自分自身に向けて、どうして、罵られる必要があるんだよ?」
「…まぁ、のいうことも真理だろうな」
「真理っていうのはこの世界にあるんだろ?≪全は一、一は全≫、命は蘇らない。人の魂は扉の向こうへ。そうか…≪真理≫会えば…」

そこで俺はハッとして言葉を止めた。

「≪真理≫に会う?なにを言ってるんだ」

グレンが訝しげに俺を見やった。レインは驚いたように目を見張っている。そうだ。そうだ!≪真理≫に会えばいいんじゃないか?忘れていたが≪真理≫は扉を開けられるはずだ。似た世界へ、パラレルワールドへ。俺の現実世界への扉を作れるんじゃないだろうか?
いや、だが錬金術師でもない俺がどうやって真理の扉を開ける?開けられやしない。
ああ、錬金術って誰に習えばいいんだ?目の前のこいつか?っていうかあれって習えばなんとかなるものなのかなぁ…【念】のときみたくどーにもならない気がするが。
折角いい案が浮かんだのに思いついて早々挫折しそうだ。大体、戦争が終わったあとに生き残れるかどうかすら分からないのに、≪真理≫に合うなど夢の夢…いや、俺が異世界に存在していること事態がすでに夢よりも奇跡だ。案外、どーにかなるものなのかもしれない。いかん、思考はポジティブなのかネガティブなのか…中途半端だ。

「グレン。この戦争が終わったらどうするんだ?錬金術師は圧倒的だ。戦いはもうすぐ終わるぜ」
「…そうなのか?戦争が終わるのか?戦争が終わったら…ああ、とりあえず一旦家に帰ろうと思う。もう長いこと帰ってないからな。」
「そうだな…」

そうだな、と同意するように頷きながらも俺はどこに居場所があるんだと思った。帰る場所もない、そもそも、俺の世界はどこにもない。ああ、やっぱりネガティブだ。
人間の誰とも触れ合わずに、仙人のような暮らしがしたいものだ。もし…もしも、この戦争で生き残ることが出来たら、どこか山奥で暮らそう。ひとりで生きていくだけの技術はあるはずだ。

レインに俺は「そうだな」ともう一度繰り替えして返事をした。

「やられた!糞っ」
「ぎゅああああああぁあーーー!!」

断末魔が、叫びが、響く。弾丸が飛来し、刀が宙を切る。
仲間の一人が敵に足を切られた。出血が酷い。兵士の一人が駆け寄って止血をするがどうにも切られている足からは血が止まらない。痛みに耐え切れずに叫び続ける様はまるで知性も感じられない。ただ、本能に従って喚く動物。それでいい、それでいいんだと思う。感情は凍って、人を殺すことに躊躇いを抱かなくなっても、自らの痛みさえ分かっていれば。
耐え切れなくなって戦争の三大悪のひとつ、麻薬を痛み止め代わりに服用させるのを目の端で捕らえた。

「チッ!」

近くで戦っていたグレンが片目を押さえた。後生大事に使っていためがねが割れたらしい。どのくらい目が悪いのか知らないが、やっと眼鏡が壊れたようだ。よく持ったほうだと思う。あれはプラスチックではなくガラスだった。ガラスな分、脆い。この戦い、こちら側の分が悪かった。前方の方では錬金術師たちが戦っているが彼らは後方の俺たちの方まで意識を向けていない。錬金術師の一人もいれば状況は百八十度くるっと変わるんだろうがな。

「撤退!撤退!」

叫喚の中、俺の耳が明確に逃げの合図を捕らえた。俺も身を翻す。


ッ!!」


どこからか飛んできた銃弾が俺に向かって飛んでくるのをコマ送りのように見えた。戦争なんてのは灰色だ。全てが白か、黒か…――それとも、赤か。

戦場を切り裂く銀色の弾丸の色が灰色を裂く。左目が灼熱に焼けた。
誰かが呼ぶ、俺の名を。

倒れた俺の腕が踏みにじられる。



『――ねぇ、いい加減にしてよ。どうして、私に捕まってくれないの?…ねぇ、■■』


五月蝿い。誰がお前に捕まるものか。










――― そして世界は黒く塗りつぶされた。




060610