03 do you like white cage?






痛い。
主に右顔面を突き刺すような痛みに瞳が開けない。火傷や擦過傷の時は自分で傷が見えたので痛みを視覚的に理解することで痛みを軽減することも出来た。だが、これは顔面で見えない。見えないがために、痛みが増す。眼球が裏返えり瞳が針のむしろだ。此処最近感じたことのない痛みだ。初めての痛み。下手に神経が脳に近いだけあるのか知らないが、半端じゃない。ああ、目の中に指を突っ込んでかき回されているようだ。くそ、眼ン玉なんかなくなっちまえ!
あと少しの痛みが欲しい、痛みに気絶してしまいたい。そうしたらどんなに楽だろう。俺の顔面はどうなった?

「あ…あ、あ…」

情けない絶叫の声は疾うに消え、絶え絶えな嗚咽のような悲鳴を上げて、瞳を押さえて俺はのたうちまわる。脳を蹂躙する痛みは嬉々として俺を踏みにじる。
抑えた手の平にどくどくと痛みと連動した生暖かい血が付着し、激痛が俺を支配する。きっとこの心臓の鼓動にあわせるような脈拍が痛みが虚ろになっていくとともに小さくなり、やがては停止するのだろうか。ああ、そんなのは嫌だ。痛い。

「わんわんっ!!」
「ベック、どうしたの?そっちに…何かあっ――…きゃああっ」
「シズカッ、どうしたんだっ!?」
「お、お兄ちゃんッお兄ちゃん、早く来てっ!!」
「シズッ…!!うわッ!なんだよ、コレ、おい、お前、大丈夫か!?意識はあるかっ?父さん呼んで来い、急げ!!」
「う、は、はい!!」

痛い。痛い。嫌だ。死にたくない。痛い。

瞳がなくなればいいのか?そうすれば、この痛みから逃れられるか?

じゃあ、亡くなれ。

「!!お前ッっ!!!?」

甲手で右目を突き破った。ブチュリとトマトでも潰したような音が聞こえたような気もしたが、俺自身がした無謀な行為によって、俺の痛みの許容量はメーターを振り切り、意識を手放せるという喜ばしい状態へと堕ちた。





□■□





意識はゆっくりと浮上する。闇の中だ。いけない、こんな泥のように眠ってしまっては敵襲が会った時に起きれない。重い瞼を開こうとして、暗闇の中手探りで抱えてるはずの武器を探すそうとした。――…おかしい、身体が動かない。あれだ、この身体全体が膨れたような感覚だけがやたらとあるこれば、歯医者に行ったときの口内の麻酔と同じだ。だが、動くはずだ。目を開けろ、開け。
――…瞼は確かに開けてるはずだ。睫に当たる何かが視界を阻む。目隠しをされているの?開いているはずの瞼は何も映さない、闇があるだけだ。闇だけ見るなら瞳を開いていても仕方が無い。俺は瞬時に眼を閉じると、耳を澄ました。
ピ、ピ、ピ。絶え間ない機械音がとともに、幾人かの人が動く衣擦れの音。鼻から匂いを吸い込めばツンとした消毒液の匂いがした。病院か、ここは?身体が全身動かないのは戦場で重症でもおったのだろうか。ウーゴのように負傷により戦線離脱?身体が酷くだるい。考えが纏まらない。病院ならここはすでに戦地を離れて安全なはずだ…ああ、だるい。再び俺の意識は沈んだ。

次に俺が意識を取り戻したとき、身体の自由は戻っていた。ただ、右顔面にそれとなく違和感があった。だが、それは些細な違和感だ。瞳の部分は変わらず目隠し…恐らく瞳から頭部に掛けて包帯が巻かれているようだ。腕を上げてそれを確かめようとした拍子に皮膚に心地よいさらさらな布の感触がした。川で洗っても落しきれなかったこびり付いた血のごわごわとしたか感触とは大違いだ。

「ドクター、この男の身元は分かったんですか?」

俺は動きを止めて耳を澄ました。若い男の声が右傍らからした。男、とは俺のことだろう。

「…いや、DNA鑑定した結果、彼の遺伝子は登録されていなかった。比較的似ているものもあったが…一致するものは無かった」

DNA鑑定…?待て、おかしい。鋼の世界ではヒトゲノムの解析、鑑定なんてもんなない。あそこはもっとファンタジックに科学が遅れている。あるのは、現実世界を生きてきた俺にとっては魔法みたいなモンばっかりだ。

「そうなんですか…変な患者ですよね。身体中傷だらけで、どこかの戦場に居たんじゃないかっていう感じですよ。見ました、あの傷跡!着ているものだってボロボロでしたし…」
「だがもう何年も戦争なんて起こってないし年齢から見ても…戦場へ行ったことがあるような歳でもないだろう。いや、患者の様子は現在進行形で戦時中にいたような感じだったな」
「…もしかして、アッチですかね?」

一人が声を落とした。

「いや、そんなわけは無いだろう…だったら担ぎ込まれた時点で…」
「そうですよね…すいません」

無言が室内に広がった。目が見えない、というは苦痛だった。俺が病院にいることは確実だ。目を開いているにも関わらずに布に邪魔されて周りが見えない。周りの状況が理解できない状態というのは酷く不安なものだ。俺は徐に腕を上げて顔面の包帯をむしり取ろうと動かした。が、その手は他人の手によって掴んで止められた。

「!君、動かないで!ドクターッ!」
「おお、気が付いたのか!瞳の包帯は外さないで。取っても何も見えないことには代わりが無いから」

頭上で慌てた声がして、次にゆったりとした男の声に動作をとどめられた。この場には俺の他に二人いて今までの会話からして一人はドクター…年配の男の方、一方は看護師…若い男の方だろう。俺は首を捻って声がしたほうに顔を向けた。眼が見えない…?それはどうし…いや、思い当りはあった。銃弾が俺の顔面に向けて迫り来たのだ。

「俺の目、どーなったんですか?」

今は痛みも無く落ち着いているが意識を失う直前に荒れ狂った痛み。恐らく、瞳は失われているだろう。痛みに耐え切れずに最後の方はちゃんと覚えていないが…掠れた声で俺は聞いて分かりきった答えが返ってくるのを待った。

「右目は眼球自体が潰れていたから…摘出して義眼を入れたよ。暫くはそのままで生活を送ってくれ。全身スキャンの結果、内部の損傷は見当たらなかったから通常食を提供してもいいんだが…食べれそうかな?」
「…はい。あの…俺のこと…」
「詳しいことは、食後に聞いてもいいかな?三日ほど意識が無かったからまずは胃に食物を納めて精力を付けなさい。話はそれからにしよう」

親切な医者だ。見えないので医者の様子は想像で思い浮かべる。

「君、ちょっと御免ね。腕から点滴のチューブ抜くから力抜いててくれるかな?…うん、取れた」

小さな痛みと共に、消毒液のガーゼを腕に当てられた。

「じゃあ、私たちはこれで…困ったことがあればそこのI…いや、声を出して呼んでくれれば誰かが来ると思う。では、失礼します」

二人文の足音とシュッと扉のスライドする微かな音。俺は大きく息を吐いた。俺のことについてはどうせ遅かれ早かれ聞かれることだ。食事の後に聞かれるのなら、今のうちに出来ることをしなければならない。
遺伝子なんていう言葉は【鋼】に存在しない。全身のスキャン?そんな高度医療も存在しないのではないだろうか。そして、俺は身元不明らしい。俺が負傷して戦線を離脱し病院へ担ぎ込まれたのならば書類はないとしても人づてに俺の名前ぐらいは把握出来るはずだ。だが、「此処何年も戦争なんてない」の言葉…。
そして――…何より、この病院は綺麗過ぎる。東部から運ばれたにしても、野戦病院なんて高が知れている。この個室には俺以外の人間の息使いが聞こえないし、あちこちから上がっててしかるべき苦痛と怨唆に満ちた呻きが聞こえない。医者といい、ここは上品過ぎる。ここはまた違うところだ。どこだ?ここはどこだ?(また、嫌な予感がする)
ここはどこだ。【HH】か【鋼】か…それともまた、別の世界か?情報が足りない。情報が欲しい。俺がいる場所はどこだ?視覚がないというのは物凄く情報を制限されることを俺は改めて知った。目が開いていれば周りの状況を見て判断が出来る。手触りや聴覚なんてのは高が知れている。目から受ける情報量ってのがもしかしたら一番人間で多いのかもしれない。

食事はチューブのボトルを渡された。目の見えない状態でもしかして手ずからあーんとか食べさせてもらうのかと恐々としていたのでちょっと安心した。
だが、味は最悪に不味かった。野菜ジュースをどろりとさせて栄養価を高いものを取り合えず突っ込んだ感じだ。喉に絡みつく。不味い。青汁かなんかを飲んでいるようだ。贅沢は言えないが。

「じゃあ、まずは君の名前は?」
です」

一瞬、名前を名乗ることを躊躇った。だが、俺の名前なんて俺の【世界】でない限りある意味全く持って無意味だ。俺が俺である証だけれど、同時に俺という人間をあらわすただの記号。この【世界】がどこだか分からないが俺の名前が完全な意味を持つのは【現実世界】だけだ。いくら名乗ったところで俺の名前から何かが分かるということはないだろう…ここが、【世界】であり限り。声色から判断するに、先ほどの看護師だろう。上半身を起こして壁に寄りかかっている状態の俺のすぐ右側から声が聞こえる。ギギ、と何かを引きずるような音がしたことから椅子かなんかをベットの隣に置いたのだろうと予測する。

くんね…やっぱり、ないね。地球に同姓同名がいるけど…違うよね」
「地球…?ここって、地球なんですか?っていうことは、日本とか、東京とかありますか!」

地球!?なんかもう、地球とかそういう惑星定義がな世界を二つ渡ってしまったので、地球というビックレベルな名詞がとてつもなく懐かしい。ああ、地球って青いんだよなぁ…。人間って偉大だ。宇宙にいけるほどの技術力を持ってるんだから…俺も一度でいいから宇宙旅行してみたいなぁと夢見がちなお年頃もあったものだ。地球ってことは…ここ、俺の【世界】の可能性が高くないか!?いや、待て、悪夢(戦場)から天国(現実)に引き戻した振りして期待をしたら再び地獄(別世界)だったりするかもしれない。期待はするな。期待をすると馬鹿を見るぞ。ほら、息を吸え。

「…え、ニホンとかトウキョウはあるけど…残念なことにここは地球じゃないよ、火星だよ」

地獄に再びたたき落とされた。二度あることは三度在る。そう簡単にはいかないよな…。じゃあ、ここはどこだか知らなくちゃならない。冷静になって、相手から情報を引き出さなければならない。地球があるということはまぁ、それほど凄まじく世界観が違う場所に【世渡り】したわけではないだろう。いいとこ、平行世界並みSFなみの世界観であることを望もう。
あんな、血で血を洗うような原始的な刃物を振り回すのはもう嫌だ。怖い。戦場の恐怖を思い出して身体が震えた。

「あ、寒い?冷房下げようか?」
「や、違います。大丈夫です。火星ってあの、赤い?」
「あはは。赤くはないよ。赤かったのはもうだいぶ昔のことだよ。まぁ、土壌に散布したナノマシンの所為で野菜とか美味しくないよね」
「……火星って、あの…今年って何年でしたっけ…二千…」

言いよどんでチラリと相手を伺う。(と言ってもたぶん相手が居る方向に顔を動かしただけだが)

「2193年だよ」
「2193年、ですか。そんなに…」

そんな未来に俺はいるのか。俺の思惑どうりに看護師が言葉を引き継いで答えてくれたことで恐らく西暦らしきものを聞けた。これが星暦、宇宙暦、銀河系標準歴だとかそういう飛んでいるものでないことを望む。火星、2193年、…駄目だ、ここがどこだかさっぱり分からない。かなりの未来ということは分かるのだが…いっそのこと、ここは俺の生きていた【現実】の平行未来というタイムスリップネタはどうだろうか。それだと、俺の心が幾分救われる気がする。

「で、君の名前意外のことが知りたいんだけど、いいかなぁ?まずはどこ出身なのかな、あと、その身体中の傷はどうして出来たものなのかな?なんで、公園なんかに倒れていたの?」
「公園?俺、公園に倒れていたんですか?」
「ああ、うん、第一発見者は…朝散歩に出てた兄妹なんだけどね…火星じゃないよね、出身は」
「出身は…地球ですけど」

もっと小単位にすると日本ですけれども。

「だよね。ナノマシン処理されていない人って火星じゃ珍しいモンね。地球のどこらへん?ニホン?ヨーロッパ、キューシュー…あとどこだっけなぁ…」

ナノマシン?

「ナノマシンって…ナノマシンって…あれですか?体内に入れるもののこと?」
「地球人っIFSに否定的だからね。なんでだろうね、凄い便利なのに。むしろ僕にIFSがない生活の方が思い浮かべられないんだけどなぁ…」

image feedback systemIFS。さらっと流されてしまいそうな言葉だが記憶に引っかかった。【世界】を識別するための決定的キーワードがひとつ、【火星】・【ナノマシン】・【IFS】、まさかとは思うのだが…。

くん?」
「や、ちょっとどうして俺がここに居るのか……正直、分かりません」
「どういういことかな?じゃあ、身体の傷については?酷い傷だよね」
「……」

沈黙を守るしかなかった。よくある手として「記憶喪失で…」とかと言っても、絶対に信じてもらえないだろう。すでに名前と出身地を答えてしまった。今更…ここはどこ、おれはだれ?なんて云っても仕方がない。胡乱な目で見られるだけだ。今、俺の視線が隠されていて良かった…包帯が無かったら俺の目は忙しなく泳がしいるだろう。いかにも挙動不審さ大爆発だ。

「……言わない、いや、言えないのかな?」
「言えない…です。言ったらきっと…」

俺のこと、頭のイカレタ奴だと思うだろう。俺だって経験してなかったら「ああ?世界を渡るだぁ?変なSF小説読みすぎじゃねーの?」と嘲笑する。そして、半径一メートル以内には入りたくない。逆切れされて夢と現実の区別が付かなくなって危害を加えられたりしたくないから。
流石に俺自身に起こっていることなので、痛いほど現実だと分かっていることだ。夢じゃないけど、夢見たいなもんだ。こんな過酷な現実はいらなかった。

「そうか…」

何を思ったのか、看護師は声を小さくした。

「あー…えっとじゃあ!今日はこのくらいでいいよ。また、明日にでもしよう!」

慌しく、看護師が椅子を引いて立ち上がる音がした。俺はほっとすると同時に不思議に思う。いくら言えないと言ったところで根掘り葉掘り聞かれると思っていたのに、いくらなんでも質問の量が少なすぎる。明日また、と言っていたことから明日にもっと突っ込んだ質問をしてくるのだろうか。
この歳で…あー…俺、何歳だ?二十後半?外見年齢が変わらない上に、低下するはずの体力は緩やかな曲線を描いて向上する一方だ。けど、戦場での経験は一日が十日ぐらいに感じられたときだってあった。精神年齢は崩壊しつつもそれなりに育っているつもりなのだが…それが、いい成長か悪い成長かは別として。結局、イシュヴァールの内乱で俺は何年戦っているんだろう…いや、ここはもう過去形で戦っていたのだろう、としてもいいだろう。

「あの…」
「ん、なにかな?」
「貴方の名前を伺っても?ここはどこですか?」
「ああ!そっか、ごめん、ごめん!大事なこと最初に行ってなかったね。僕はタナカ・レンジ。ここはラクド研究所だよ」
「研究所……?」

てっきり病院だと思っていたのだが、違ったのか?

「じゃあ、安静にね」

タナカが出て行った後、腰の下にあった枕を胸に抱え込んで口元を押し付けた。
そして、呟く。

――……ここは



「【機動戦艦ナデシコ】」



【機動戦艦ナデシコ】で、恐らく合っていると思う。いささか断言できないのは、俺がこのアニメを見たのは何十年も昔の話だからだ。俺が中学ぐらいのときだから…十ン年以上は立っていることは間違いない。そんな昔のアニメの内容なんてそこそこしか覚えていない。機動戦艦ナデシコが地球から火星に取り残された人間を助けにいく物語で、主人公の成長ものがたりでいささかハーレム気味の、しかし最終的には木星やら遺跡やらが関わって悲劇的な結末を遂げる…んだったような。
自分の置かれている立場を整理しよう。ここは【撫子】。【鋼】の次は【撫子】だ。そして、俺は今イシュヴァール東部から火星にいる。凄い差だ。
ん?俺は今火星にいる?……ちょっと待て、物語の始まりは火星が木星に殲滅させられるところから始まるんだろ?火星で研究なんか続けられるわけがない。タナカは2193年と言ったよな?え、火星が攻撃されるのってまだ先なのかアニメを一回見ただけでンな細かい年号まで覚えているわけが無い。?【HH】の時のように俺の知っている内容よりも昔に来てしまったのか?くそ、火星が攻撃されるのっていつだよ!出来ればそれまでには火星を脱出して地球あたりに高飛びしたいものだ。
大体、ラクド研究所?ってなんの研究所だ?公園で倒れていたと言っていたが…なんで病院じゃなくて研究所に運ばれているのだろうか。あれか、俺の身元が怪しすぎたのか?まぁ、恐らくそんなところだろう。あからさまな不審者だ。

「あ…ふぅ…」

眠気が襲ってきて、俺はあくびをすると緩やかに眠りの闇に身を任せた。





□■□





浅くは無い眠りから起こされたのは激しく能天気な声とともだった。

「やぁやぁ、はじめまして。ボクはここの研究員の一人のカシワギ・リューシンです。君の身柄はボクが管理することになったから、ご挨拶に来ましたヨー」
「はぁ…」

よく分からなくて生返事を返す。

「カシワギ博士、くんには見えてませんよ」
「ほへ?ああ、これは失礼!手を差し出しても君には見えてないんだったネ、失敬失敬!あはは」

突然の訪問者に俺は声のしたほうに顔を向けるだけで、他にリアクションが取りようもなかった。や、目が見えていればそれなりに対処できたのだろうが目が見えない状態では声だけで相手を判別するしかない。妙に高いテンションのしゃべり方は胡散臭い中国人の片言のように語尾が上がる。

「さてさて、ボクも君の身体見てもいいかな?傷の具合とか見て見たいしネ」
「どうぞ」

俺が着ている服はスカスカした布一枚だ。野戦服はとっくの昔に処分されたのかもしれない。アレは汚い。来ていた俺が言うのもなんだが、流星街に居たころよりも洗濯なんてものをしていないので赤やら血やら肉片やらで相当臭い。あれは、着ている俺からしても汚すぎた。ボサボサに伸ばしっぱなしだった髪の毛もさっぱりと丸刈りになっていた。頭皮が少々風が涼しい。
空調が聞いていて寒くも熱くも無い。肌蹴られた身体を人の手が時たま触る。…そういや、俺って下着もきてねーんだよな…下まですっぽんぽんで見知らぬ人間に見られているのは嫌だ。感心したようにカワギシ博士なる男は俺の身体…というか傷跡を触診する。

「ほー…凄い傷だねー。コレは火傷だネ、これは切り傷。ワァ、これ、結構ヤバかったね、もうちょい右だったら肺に穴空いてるネ。ほーほーふむふむ。なるほど。全部の傷跡に言えることだけど、受けたあとの処置が全部わるいネ。ちゃんと手当てすればもっと綺麗に傷口消えてたヨ。ハイ、おしまイ」

手際よく捲られた服を元に戻される。じっくりと身体中の傷を見たことがないので、自分の身体の癖に凄く気になる。包帯が外れたら、是非一度鏡の前に立って全身くまなく見てみよう。…ちょっと。裸体で鏡の自分を検分するなんてナルシストのようだなと想像してしまった。

「でね。君のこれからの処置なんだけど……IFSを入れてみる気、ないかイ?」
「IFSをですか…?なんでです?」

IFSってのは…なんだっけ?何が出来るんだっけか…あのロボットが動かせるのと、オペレーションが出来るんだっけ?や、実際になにが出来るのかよく分からない。

「まぁ、第一にIFSは入れないことには、火星での生活は不便ってことかな。火星の人間の99.89%はIFSを持っているしネ。この部屋もIFSの操作でテレビとかネットとか通信とか出来るんだけど、君が持ってないからそういう機能全然使えてないんだよネ〜。もったいないネ」
「はぁ…そうなんですか…。凄いですね…」
「うん、デショでしょ?まぁ、それは君にしたら副特典みたいな感じで、ナノマシンを入れることでそっちの右目、もしかしたら見えるようになるかもしれないんだよネ。どう?ナノマシン入れちゃってもいいかナ?」
「え…と、」

そう急に判断を迫られても困る。というか、そんなことを急に言われてもとてもすぐには頷けない。ナノマシン…とか、機械を身体に入れるのは正直、抵抗があるというかナノマシンについてさほど知っているわけでもないので良し悪しが決められない。だが、目が見えるようになるということには大いに心が引かれる。この三日間、目が見えない不便さは自覚した。トイレに行くにも人を呼ばなきゃいけないし、何も出来ない。

「返事は…そうだね、明日の夕食の時に聞くネ。それまで考えておいてちょーだイ」
「はい」


そして、後日俺は返事をした。
答えは…―――― NO。






眼鏡をかけた笑顔の男の顔が見に飛び込んできた。久々に瞳に感じる光に目がちかちかした。誰だ?酷くトリッキーな逆立つ鳥頭をしている。酷く視野が狭くて目をきょろきょろと動かしてみて、やっと右目が見えてないから視野が狭いのだと気が付いた。久々に目でみる世界。真っ暗だった世界に色彩が鮮やかに見える。ただ、残念なことに真っ白な色ばかりだ。

「気が付いたかイ、君?」

特徴のあるしゃべり方で相手が誰だかすぐ分かった。彼はカシワギ博士だ。

「本当は君に納得して、自分から手伝って欲しかったんだけど…うん、断られちゃったからネ。仕方ないから強制的になっちゃたよ」

どういうことだ!?カシワギののほほんとした、しかし明らかに聞き捨てならな言葉に反応して俺に聞き返そうとして身体を起こ…そうとして、出来なかった。糞、なんで身体が動かない?意識がはっきりしているのに身体が動かない。金縛りにあった時の感じによく似ている。
にこにこと笑って…まぁ、その時のカワギシの目は人間を見るようなものじゃなかった。とりあえず、他人とか、敵とか、自分と同じ生き物として認識することをしない人間の目だった。よく言う、研究者の目?
見られている側としてはこの上なく不愉快な目線だが、戦場において似たような目をするヤツはいくらだっていた。俺だって、敵に対してそういう目だったし、セイやナガレが時々見せる目もそうだし、グレンが認識できる味方以外にしていた目もそうだ。敵に対しての悪意とか憎悪とかを超えていて、ただの《対象・認識外》ってな感じだ。
認識外だから、どこまでも残酷なことも出来るし、自分じゃないからなんだって出来る。じわじわと湧いてくる俺のこれからの身の上に喉がなる。

「君の身元ははっきりいって怪しいヨ。君の該当するデータもないんだモン。こっちとしてもここに理由無く居られて困るんだヨ。金って湧いてこないから。でね、今開発しているナノマシンに付き合って欲しいんだよネ。そうすれば、お互い相互協力できるでしょ?大丈夫、手荒なことはしないから大丈夫、ただの臨床実験だし。いちおう、動物で実験してあるやつだからそうそう身体に害は出ないはずだヨ」

ああ、動物実験済みのやつなのか…だったら安心だ。……なーんて、誰が思うんだよ、この野郎!マッドか。お前はマッドサイエンティストなのか?古来より、アニメ・漫画のマッドは類を見ないほど凶悪だ。時たま阿呆なキャラも入るが、極悪非道な残酷なヤツだって沢山入る。俺は混乱して怯えた目でカシワギを見上げた。自慢じゃないが、 流星街や東部内乱でも生き残った俺が、こんな運動音痴そうな科学者の手にかかって死ぬなんて…軽い怒りと諦めに近い感情が胸に溢れた。流石は俺のような平凡な人間にしてみればあっけない最後になりそうだ。車に轢かれて死ぬとか、そういうのよりは特別な死に方か?イヤダイヤダ死にたくない。かといって、拷問のようなむごいことをされて生きていたくもない。

「じゃ、まず一般用のナノマシンを投与するネ」

右腕に針のない注射器が当てられるのを目で追った。空気圧の音とともに、血管の中を何かが物凄い勢いで違和感を伴って駆け巡っていく。異物感だ。そう、これは異物感だ。身体に無理やりに何かを合わせようとする力が働いて…変な例えになるが、炭酸飲料が血管に入ってパチパチとはじけているような気がした。あくまでイメージだが、妙に気持ちが悪い。眉を顰めて不快感に動かない身体で身をよじろうとする。得たいの知れない変な感覚に汗が滲む。ピリ、とした静電気のような痛みが一瞬脳を刺激した。

「ん?苦しい?気持ち悪い?ナノマシンと相性悪いのかな…非適合者は0.1パーセント以下なんだけどナ…。ああ、大丈夫そうだヨ、手の甲に紋章(タトゥ)現れたし。良好良好。これでIFSのものは使えるようになるよ。良かったね!オールマイティの基礎的数値は出せるだけのナノマシン量だしね。あとは君の脳許容量の問題かな。処理能力とかの効率化のための補助脳も形成されるかもね。これから一緒に頑張ろうネー」



――…そして、俺の実験体(モルモット)としての人生のページが幕を開けたのであった。



この書き出しで始まる物語はさぞかし悲惨だろう。
まぁ、それなりに悲惨である、と言える。が、ある意味平和。なんというか淡々とした日々だ。俺が何を感じ、日々を過ごしているのかと言うと、毎日がこの上なく暇だったの一言に集約されるかもしれない。俺に割り当てられた部屋は普通に一般病棟のようになっている。部屋として足りないものは、鏡、カレンダー、時計。時間の感覚が狂ってが、三色毎日きっちりと時間ごとに出されるし、朝晩の起床や就寝も一定なことによって一日のリズムは正確だ。イシュヴァール内乱での超不規則な生活に比べると、この生活のほうが質はいいのかもしれない。ただ、毎日の感覚が麻痺して何ヶ月経っているのかあまり分からない。衣食住が保障されているという時点で身元不明な人間として恵まれているとも言える気もしないでもない。

だが、俺は実験体(モルモット)だ。
その事実は臨床実験の実験体として、体中に身体の様子を逐一24時間モニターで観察するためのワッペンのようなものを胸や主要箇所にペタペタと貼り付けられていることからも分かる。おれ自身のプライベートがなく(これは戦場でも似たようなもんだったけど)いつだって記録されている。皮膚に直接貼り付けたワッペンは内部のナノマシンとの連動で、俺の身体の心拍数やら体温やらナノマシン変化やらが分かるというものらしいが詳しくは分からない。
血液採取のときにアンプルに入った俺の血は普通で、この中にナノマシンが存在しているのかと思うとかなり現実味がない。ただ、右手の甲に薄っすらと白く浮き上がったΩに似た形のタトゥだけが証明だ。
一般用ナノマシンを投与された後、俺にはカシワギの言うところの、動物での臨床実験はクリアしたものを投与された。動物では問題が無かったものが、人体に影響を及ぼすというものはまれにあることらしい。似てるっても小動物と人間での体内での処理能力はまったく持って違う、消化器官やらなにやらでできている。そのための人体での臨床実験だ。どんな能力のあるナノマシンを投与されているのかこちらは事前にはさっぱり聞かされていない。
投与された後、課題を出されてそれをIFSのコンピュータで処理したり、普通の運動施設みたいなところで身体能力を測られたりするのだ。IFSはかなり面白い。手を載せることで脳裏に二重映像のように情報が映る。実際に視覚して見えている情報と頭の奥で見ていている情報に最初は混乱しそうになったが、目を瞑って頭の方に専念するか、または専門のバイザーを掛けてやるとまぁ上手く出来る。普通にウインドウで視覚しながらすることも出来るが、電脳空間に身を浸すほうがかなり面白い。あれだ、ヴァーチャル空間をイメージして欲しい。電脳空間っていうのが脳裏に絶えず映し出されているような感じだ。


夜。

「うわぁあ、あ、あ、ああーーーーーー!!!」

俺は自分の掠れた悲鳴で飛び起きることが多々ある。最初のうちはその度に俺の心拍数の異常を察知した研究員がやってきていたが、一週間に二度ほど起きるこの現象に最近ではとんと人はやってこない。自動的に付いた照明が周囲を明るく照らした。窓ひとつ無いこの部屋では息抜きになるような光景は無い。真っ白い病院室は清潔であるがよそよそしい。
肩で息をしていたのを宥め、俺は丸くなって眼を閉じた。


見ていたのは悪夢。戦場での記憶だ。
良くある、殺した人間が出てくるというアレだ。足元がびちゃびちゃとぬかるんだ赤い場所で、ヤツラはゾンビのように起き上がってくる。俺はただ突っ立って彼らを見ていることしか出来ない。緩慢な動作でヤツらは突っ立っていることしか出来ない俺に近づいてくる。目鼻顔立ちは見えない。ただ、黒い影がイシュヴァール兵の衣装をまとって俺に近づいてくるのだ。
亡霊どもが!!と俺は罵る。
死者は甦らない、死んだら終わりだ。死者が完全な形で甦ることは無い。死から目を逸らすなとはいわない。若いうちは死なんて遠い先の出来事のように思うもんだ。
だけど、身近なものが死んだらビビル。俺の従姉妹も二十歳にもうすぐ手が届くというところで死んでしまった。だから、死というものについて俺は一時期真剣に考えたんだ。
俺は彼らが近寄ってくるときに見ていることしかできない。ヤツラは石像のように身体の自由が利かない俺の真正面に近づき、ただの闇の身体が俺に重なりあうようにして――…すり抜ける。
身体の中を害虫が這うような錯覚。深い闇に絡め取られる感覚。


―――…全身を支配する、恐怖!!


恐怖に俺は悲鳴をあげる。俺が怖いのはなんだ?痛みか、死か、それとも――…恐怖そのものか?



目覚め、額に張りついた汗を拭い。俺はぼんやりと考える。
はっきり言って、どこかの召喚英雄譚のように、「君は選ばれた○○だ!」的な展開だったら、どうして俺が?と疑問と混乱しつつも、取りあえず与えられた役割を全うしようとするだろう。それこそ、目の前に引かれたレールの上を、それなりのバックアップを持って通っていける。
じゃあ、俺は?はっきり言って、まったく意味がない気がする。何かを救うわけでもないし、何かを成すわけでもない。

全く、俺はいてもいなくてもいいものだ。

そう、俺は今軽く欝に陥っているようだ。戦場での経験はゆっくりと俺の身体の底に沈み始めているが、そう簡単に忘れられるもんじゃない。けれど、それほど俺を脅かすことのない今の環境は俺を少しずつだが正常に向わせている。(要するに、戦場での俺は狂っていたから、それが少しずつ形を変えて元に戻ろうとしているような)
俺は戦場での出来事としてイシュヴァールで殺した命を後悔はしていない。だって、殺さなければこっちが殺られてたから。それだけは絶対に後悔していない。俺の命を捧げることは出来ない。俺の命は俺のものだから。

けれど、あのドンパチした場所を今俺は少し懐かしく感じている。戻りたい、とは思わないが、それでもあの場所は少し懐かしかった。きっと、この部屋の空間は静か過ぎて白すぎて、気持ちがわるくなってくるからだ。
何色にも染まらない白なんて目に痛いだけだ。清浄すぎてやたらと偽善的だ。
ああ、それから、きっと俺は話相手が欲しいんだろう。あの場所では一人ぼっちになることはなかった。ここでは話相手といえばカシワギや他数人の研究員。俺とは話が合わない。閉鎖された空間で限られた人間。俺はボーっとしているか、端末をいじってネットでふらふらしているかだ。それも制限された情報なので大した情報ではないのだろうがそれでも、俺のような過去の人間にとっては驚くような事件や話題があった。最初は夢中になったが、やがては飽きる。

俺は一体、いつまでここにいればいいんだろうか?


過ぎる日々は、音のない世界。





□■□





期間を置いてナノマシンは何度も入れられる。
つっても、今まで入れられた用途不明のナノマシンは四つほどだ。そのうち二番目が軽くあたった。腹下しみたいな表現だが、マジであたった。目の前がちかちかして、主に脳の裏らへんを絶えず閃光が走った。身体がこちらの意思とは関係なく小刻みに痙攣した。電気ショックを受けたみたいにビリビリだ。

「アレレー?これは、O-114の改良版なんだけど…問題ないはずなんだけどなァ」
「ど、かッ、」

歯の根がかみ合わず上手く言葉を紡げず、断末魔の痙攣のように四肢の自由が聞かない調子の俺を見下ろし、のんびりとしたキチガイじみた語尾上がりの口調を慌てさせることもなく、カシワギは空中にウインドウを起動させるとわけの分からない数値や色とりどりのデータグラフに目を走らせる。この空間は明るいはずなのにカシワギのメガネに高速クスロールさせる様子は室内が薄暗いような錯覚さえ催させる。これがマットの怖さなのか…脂汗を滲まして目を虚ろにしている俺にニパっとカシワギが笑いかけた。

「あー…えとね、これはB-442との相互作用が駄目みたいで…ナノマシン同士が反発してるネ。どうしてだろうな…まあいいや。これはちょっと調整が必要みたいだね。中和ナノマシン入れるネ。アレ…面白いね。これ、ちょっと狙った効果と違うんだけど、まあいっか、痛いの収まったかイ?上手く入ったみたいかな?良かった良かった」

常時こんな様子だ。
カシワギがいうには、

『ナノマシンは科学の芸術だ!』

意味が分からん。お前はあれか、「芸術は爆発だ!」の人か。
どうやら、このカシワギという男はナノマシンに関しては火星でも権威の一人のようだ。いや、実際本当にそうなのかは知らんが。そう思っていないと、こっちの精神面が壊滅する。

「さてさて、今日は記念すべき七本目なんだけど、これはくんのお待ちかねのだヨ!嬉しいでしょ?嬉しイ?」

ニコニコと無邪気に笑って俺を見下ろしてくるカシワギに俺は大丈夫か、コイツ、という眼でみやった。この男はいつも唐突だ。ある意味、子供がそのまま大きくなったような印象を受けることも在る。…そういえば、コイツ、俺と実年齢がそう変わらないんじゃないか?二十台後半?やべぇ、俺はもうすぐ三十代?

「や…、意味が分からないんですが…」
「ふふふーー!!これは君の右目を見えるようにするナノマシンだヨ!!」

腰に手を当てて、ふんぞり返って電気に注射器を翳すカシワギ。

くんのは、脳先天的に欠陥があるわけじゃないから、ナノマシンを入れることによる擬似的な神経網と補助脳を形成し、補助脳からのシナプスをナノマシンを通して擬似視神経から反射させることによって通常の視覚を確保する!……予定」
「待て。今、予定って言いました?予定って言いましたよね?絶対じゃないってことですか、それ」
「まぁ、理論上は大丈夫なはずなんだけどネ。まぁ、後は神だのみーってことですヨ」

うわぁあ!!信用できねーよ、コイツ!

「あれっスか。それは失敗しても、正常な左目のほうに影響が出ることはないですよね?」

これは重要だ。左目が正常なお陰で俺は人並みに一人で行動することが出来る。これで左目の光まで奪われてしまったら洒落にならない。盲導犬がいなくちゃ生活できない生活を送れと?嫌だ。せめて正常な左目だけは死守したい。

「んー。わかんない。大丈夫だってば。何事も実験あるのみですヨー」

爽やかに黒い笑顔とともに、打ち込まれる注射器。
なんでだろうか、殺気がないからか?俺の首筋にいともたやすく注射器が当てられた。ああ、ここでは明らかに立場というものが違うのだ。と実感した。戦場でだって敵味方は互いの役割がはっきりしているがある意味それは同等の立場に近い。敵にとっての敵は味方、だが研究者にとっての実験体は研究者ではない。埋められない立場の違い。ああ、理不尽なことだ。

――…結局のところ、左目はほとんど見えないことには変わりなかった。正常な右目となんら変わらぬように見える黒目が鏡の中から俺を見つめるだけだ。光を反射しない黒目の義眼は、相変わらずぽっかりと空いた穴のようだ。
さて、この左目は一体戦場でなにを見たのだろうか。と、ふと思った。





□■□





ズズズ…普通なら気が付かないほどの低い振動が腰の下から伝わってくる。
俺は眠りから瞬時に覚醒し跳ね起きた。この振動は…地震ではなく、もっと身近に知っていたものだ。あまりに久しぶりに感じたせいで惰性で過ごしていた身体が一気に元気になったかのようだ。ちっとした興奮が俺は感じた。

ズガガーン!
研究所全体に大きな衝撃が掛かった。途端に普段は静まり返っている研究所内にけたたましいアラームが鳴り響く。俺はベットから抜け出して出入り口に駆け寄った。ロックが掛かっているので俺があけることは出来ないが、激しくいドアを叩いた。ガラス張りのドアはちょっとやそっとじゃひびすら入らない。


『侵入者あり!全員直ちに避難せよ、繰り返す、直ちにシェルターへ避難せよ!』


ズズ、ズズ、と断続的に振動が続く。
そうだ、これはあれだ、忘れていない。
この区域には俺以外の人間は少なく、何人かの研究者たちが白衣を翻してどこかしらへ走っていく。ここから出せ、開けろ!と俺はガラスを叩いて彼らに大声で呼びかけるが、研究員たちは必死なのか俺にはちらりと視線を寄越すだけで慌てて逃げていく。俺がこの研究所で関わった人間なんてせいぜい五人ほどだから面識のない人間の方が多い。わが身可愛さで俺のことはどうでもいいんだろう。俺だって知らない人間を助けるよりも危ない場所からはさっさと逃げ出したいと思っている。
…そう、思っているはずなんだが、なんで俺はいまあの恐れしかもたらさないはずの爆発音(そうだ、これは戦場で時たま聞いていた音だ。この音がしたところでは、人の四肢はバラバラに粉砕され、飛び交うのは赤と白の身体の中身)に、ゾクゾクとした感覚を覚えている。
ヤバイ、俺はこの研究所でダラダラと過ごしすぎたらしい。新鮮な出来事にワクワクしている。馬鹿な!恐怖を自分から求めるようになったら終わりだ。駄目だ、これはきっと久々の恐怖感にアドレナリンが大量に分泌されてしまっているに違いない。そうだとも。
ガラスの向こうの廊下から、一人の男が走ってきた。見慣れた姿の彼は、手に袋を抱えている。外からはあっさりと開くドアはすぐに開かれた。俺は部屋から飛び出した。

「やぁやぁ、ごめんネ。お待たせお待たせ」
「ドクター!!侵入者って…」
くん!ほら、これ持って、行くよ!」

分けの分からないまま受け取って、きびすを返して走り出したカシワギの後を追った。意外にカシワギは走るのが早い。

「どこに向ってるんですか!シェルターですか!?」
「は?違うヨ、君の仲間でしょ、助けに来たんじゃないの?」
「仲間…?」

ピタリ、と唐突にカシワギが止まって俺を振り返って不思議そうな顔をしていた。いや、なんか俺が間違ったことを言ってしまったみたいな気もするけれど、間違ったことはいってない。仲間と言われて思い出すのは片手で足りるぐらいだ。

「アレレ、君ってアッチの人じゃなかったの?」

目を丸くしてカシワギは頬を掻いた。

「え、アッチって」
「侵入者、だよ。これからたぶん戦争にはいるヨ。あーあ、折角研究が中途半端だよ。脱出できるかナァ…」
「え、と。ちょっと待ってください。戦争って…火星とどこが」
「火星とっていうか……ああ、そっか、アレかな、ずっと情報制限してたから彼らが来たこと知らないのかナ?ねぇ、木星蜥蜴っていえば分かるかイ?」
「木星蜥蜴…って、木星の人たちのことですか?え、マジで?」
「あれ?その反応はやっぱ木星の人?」
「人?いや、俺は別に木星の人間じゃないですけれど」
「え。だって、木星の人間を知ってるんでしょ?」
「いえ、別に木星に知り合いは居ませんけど?」
「………」
「……え、あの?」
「木星に人間がいることは知ってるんだよね?」
「え、あ、はい。………あれ?なんでドクター知ってるんですか?え、知られましたっけ?」

木星に人間が住んでるって秘密だったんだっけ?あれ?

「……なんか僕疲れた」
「は?」

大仰なため息をついてカシワギはずれ下がった眼鏡を指で押し上げた。

「なーんだぁ…なんダ。くん、木星人じゃなかったんだー…そっかぁ、ごめんネ、僕勘違いしてたみたい。てっきりくんって木星の人だと思ったからさぁ、無理言って手元に残ってもらったのにサ」
「勘違い?」

勘違いで、俺ってこの研究所でモルモットっぽいことされてたのか?

「うん。木星の人だったら匿わなくちゃ駄目だよナーって思って」
「まさかとは思うんですが、ドクターは木星の人ですか?」
「うんや。違いますヨ」
「なんだ…良かった…っていうか、じゃあなんで木星に人がいるの知ってんですか?」
「つか、くんだって知ってるじゃんカ」
「………」
「だんまり?そうだよね、普通の人が知ってるわけないよネ。くん木星の人じゃないなら、なんで知ってんの?てっきり、戸籍がないのって木星出身で、スパイとして来たのかなぁって思ってたんだけど」
「俺は、」
「まぁ、ここヤバメだからそんなことはどーでもいっいっか。じゃあ、急いで逃げなきゃね」

くるりとカシワギは再び方向転換した。来た道を引き返すので俺は聞いた。

「なんで戻るんですか?」
「いやぁ、くんのお迎えでこの研究所に襲撃が来たのかなぁって思って。ついでに僕も木星に連れていって貰おうかナァって考えてたんだけど、なんか無理みたいだから。大人しくシェルターに行こうかと思って」
「…そうですか」

この人、やっぱりちょっと変だ。
走りながらカシワギは適当に話し出す。

「あーあ。くんが木星人じゃないなんてさぁ、あーあ。シズカちゃんが怒るなぁ。ずっと君のこと心配してたんだヨ?なんだよぉ、違うんだったらもっと早く言ってヨ」
「はぁ」
「僕がさぁ、悪役だよ?悪役?そりゃあ研究者って天才過ぎて凡人には理解されないかもしれないけどサァ…シズカちゃん、ほんっと僕のこと疑っててさぁ、まぁ、僕がくんモルモットにしたのは本当だけど、それはねぇ、木星人だと思ったから保護してあげただけなのにねぇ。シズカちゃんったら酷いよネ」
「つか、シズカちゃんって誰ですか?」
「シズカちゃんは君の命の恩人だよ」
「?はぁ」

命の恩人と言われても、会ったことも聞いたこともない名前なので流すしかなかった。突っ込んで聞くほど興味も無い。

「僕はネ、あの子が十八過ぎたら結婚したいんだよねぇ…」

しみじみと言われるが、俺は無言で返した。やぁ、俺は他人の恋愛に口を突っ込む気はさらさらない。そのシズカちゃんってのが今は幾つなのかなんてことは聞かない。っていうか、シズカちゃんなんてドラえもんのシズカちゃんしか思い浮かばない。ああ、ジャイアニズムは世界の真理だ。俺もあのぐらい傲慢に馴れればいいのになぁとちょっぴりなんとなく思う。いや、そうしたら人間失格か?いやいや、人間失格ってのはもっと相当なもんだろう。俺はそこまで堕ちて…ないよな?

シェルターには見たことも無い人間がたくさんいた。ちらほらと白衣姿が見える。ここまでくれば大丈夫だろう。シェルターってぐらいだから核兵器ぐらいの衝撃には耐えて欲しいところだ。
俺は部屋の隅っこに行ってカシワギから渡された袋を開いた。中に入っていたのは洋服と靴とショルダーバックだった。俺が研究所に来てから着ている洋服なんてのは入院患者の脱ぎやすさ抜群のやつだけだった。俺は中に入ってた服をまずカーゴパンツからはいた。カーゴパンツの裾がちょっと長かったがそんなのは折り曲げればなんとでもなる。上半身裸になってテーシャツを着た。どかりと床に座り込んでショルダーバックの中身を見てみる。水のボトルや応急処置用品、非常食、他。被災害非常用カバンだった。何が起こっているのかわからないが、騒がしい体育館のようなシェルターを見回しながら耳を澄ました。

「木星方面から…」
「くそっ!データが一部しかもって来れなかった、今から戻って」
「軍はなにやってるんだ!我々を助けに来なければ貴重な成果が…」

ペットボトルを捻って喉を潤していると上から声を掛けられた。

「君は…」

見上げると。温厚そうな白髪交じりのおっさんが俺を見下ろしていた。

「あー…どこかで会ったことありましたっけ?」

もし、会ったことがあるとしても研究所内ぐらいだろう。

「ああ、そうか。君は覚えていないのだね。あの時君は両目が自由じゃなかったからね。忘れたかな。もう一年半ぐらいになるのかな…。君が私たちの研究所に運ばれてきたとき、私が君に義眼移植手術をしたんだよ」
「ああ…」

なにか目を細めて穏やかに言われて俺は背筋が痒くなりながら控えめに頷いた。そういえば、そんなこともあったような…結局、左目は見えてないけど。おっさんはそれとなく彼が移植したという左目を伺っている。

「見えてませんよ、俺の左目」
「え?…ああ、そうなのかい。それは残念だったね…」
「まぁ、右目が見えますから。遠近感意外にそんな問題ないですけどね。ただ、右側に立たれると敏感になりますが」

苦笑して見せれば、そうなのかい、とおっさんは左側に身体を動かした。
一際大きな衝撃がシェルター内を揺るがした。そして唐突に電気が全部落ちた。非常灯が付くわけでもなく、真っ暗になった。






060708
あまりのマイナーぷりに泣ける。次はメジャーなところです。