光速ループ

01 終わらない始まり







空が遠のく。
光が僕を包む。





――ソレは事故だった。

ラスベガス発東京行きの飛行機。順調に飛行していたはずの空の要塞は、突如として乱気流に巻き込まれた。慌しくされるアナウンスは落ち着きを失っていて、それが更に乗客の不安を煽った。激しく揺すられ、上下する機体に重い重力が掛かる。シェイク状態はジェットコースターなどよりよほど浮き沈みが激しく、胸が押しつぶすように圧迫されて、人々がうめく声と、叫ぶ声が鼓膜が詰まったようになった耳が微かに捉えた。
歯を食いしばって、肘掛を握り締めて椅子に押し付けられる圧迫に耐える。ちらりと開いた目で横を伺うと、似たように椅子に押し付けられた格好のみんながいた。


(…なんで!!)


少年は思った。
どうして、なんで、ここで、僕たちは終わりなのか?

終わり。ここで終わり。
死を感じさせるほどの渦巻く混乱の中、少年は叫んだ。

まだ、何も始まってはいない。
僕たちはスタートラインに立っていない。
始まりはまだだ。

なのに…僕たちはっ…!!

体が浮くような感覚がした。
急激な降下に、頭の中が朦朧となった。




++++++++++++





少年は車椅子に腰掛てぼんやりと窓際から中庭を眺めているようだったが、その瞳は光景を目に移しているだけで本当の意味で何も見てはいなかった。両目は開いていたが、左目だけはどこか焦点があわずに茫洋としていた。白い部屋に揺れるレースのカーテンの窓際には黄色の花が一厘指してあり、その一場面だけを見れば清潔そうである。けれど、この場所に漂う匂いは鼻の奥がツンとするような刺激のある消毒剤の匂いだった。清潔に保たれた病室だそこだった。

コンコン

控えめなノックの音とともに、スライドしたドアから一人の男が入ってきた。きりりとした男らしい輪郭を持つ彼は、彼に不釣合いに白い霞草を片手に室内へと入ってきた。車椅子の少年は、男が入ってきたことに気がつかないかのように外を見たまま時を止めている。時微動だにせずに背を向けている。

「…小早川」

大きくはないが、耳に心地よい低い声に、ビクリと車椅子に乗るセナの肩が震えた。夢から醒めたように、ぎこちなく車椅子を動かして進の方へと身体を向けて相手が誰かを確かめるように瞬いた。。

「進、さん…」

ただでさえ平均より小さく、細かった体がますます小枝のような印象を与えるようになっている。進は微かに眉をひそめて苦渋の渋面を作った。

「すいません、気が付きませんでした」
「いや、具合はどうだ」
「…特に」

進は、桜庭のように上手く話題を振れない自分を歯がゆく思う。そんなんじゃない。自分は小早川の具合を聞きたいわけではないのだ。小早川の具合など、一目見れば分かる。
車椅子にすっぽりと収まっている体。窓から吹く弱い風にふわふわと揺れているのはカーテンだけではない。セナの右足が入っていないズボンが揺れている。

失った、右足。
小早川セナはもう、二度と自分の両足で立つことが出来ない。

もう二度と、あのアイシールド21となって、再びフィールドを駆ける事が出来ないのだ。

それ以上に、見上げてくるセナの瞳の暗い色に、進は目を逸らしてしまいたくなるが、踏みとどまる。ここで目を逸らしたら、何かに負けてしまう気がした。まだだ、まだ負けられないのだ。それがなんなのかは分からないが、目を逸らしてしまえば、負けだと思った。だから、射抜くようにセナの瞳を見据えれば、先に視線を逸らすのはセナのほうだった。

「…明日は、決勝戦がある」
「ああ…そうですね。もう、大会はそこまで行っちゃったんですね…」

セナは暗い瞳のまま微笑んだ。
酷く無気力な笑いだった。こんな笑みを見たいわけではない。

けれど、セナの笑みは仕方のないことだった。

泥門デビルバッツの部員一同は、アメリカ横断という無謀と思われる地獄の特訓を完遂し、日本の夏大会に向けてラスベガスから飛び立った。疲れた身体、しかし、試合への燃える心を胸に日本へ向けて飛ぶ飛行機。


――…その飛行機は離陸早々墜落した。

山中の中に堕ちた飛行機はばらばらに分離していた。奇跡的に助かった生存者は一名。


小早川瀬名。


その、命と引き換えに右足と左目の視力をほぼ失い、彼は命を取り留めた。




01 目が覚めれば全て夢



危ない!
助けられるはずだった、僕の速さを持ってすれば。

けれど、もつれ、走ることの出来ない足は、かろうじて子供の身体を押しやっただけだった。

ああ、ほら。
空の青さが見える。

ゆっくりと、世界がコマ送りの映像になっていく。
体が宙に浮いて、手が、何かを掴もうと空に伸ばされる。

…ああ、死ねるの、かな。


++


「…ナー!!セナっ!!起きなさい!!
「…ぅん…」

頭のてっぺんから出すような母親の声に、セナはぎゅっと目を瞑って布団を頭から被った。どうして、母親の声と言うのはこんなにも頭に響くのだろう。胎内にいた頃からずっと身近に聞いていたからだろうか。

「聞こえてるのっ!?もうお昼過ぎよ、いい加減に起きなさい、セナっ!!」

まどろみを破壊する声に、セナはやわらかなシーツの中から瞳を開いた。寝足りないのか、まだ少し頭の中がぼーっとする。のろのろとセナの瞳が室内を移動した。見慣れた自分の部屋だ。なんら、変わることの無い。
ギシリ…ベットを軋ませて、セナは座り込んだ。

「……?」

違和感。ふいと目線を下に下げる。セナは、目が零れ落ちそうになるほど見張った。

「あ…あ。ああ…?」

セナは痴呆のように同じ母音を口先に上らせた。
続くべき言葉が見つからないのだ。

なぜだろう。
どうしてだろう。

動悸が激しくなって、身体が震える。

…なんで、足があるの?

夢だろうか。
都合のいい夢だろうか。

足が欲しい。
大地を再び風を切って走ることの出来る足が欲しいとずっと思っていた。

神様!!
これは現実ですか。
僕の足はあるのですか、これは夢なのですか。

失った右足に爪を立てる。
ぎりぎりと爪が皮膚を切りさき、じわりと赤い血玉が膨れ上がる。
痛い。痛みはある。
そっと、セナは血の付いた指先を口に含んだ。血の、独特の鉄の味。僕の右足に通っている血。

「……う」

涙がにじんだ。
とめどなく溢れる涙。

セナは両足を体育すわりで抱え込んだ。

どのくらいその姿勢のままで、声を殺して泣いていたのだろうか。セナは赤く腫れた顔をやっと上げた。
足がある。たった一つのその夢ではない現実に、セナは喜んだ。喜びとと一言で表すことの、なんと味気ないことか。喜びを超えた喜び。狂うほどの喜び、……静かな狂喜こそ、この時の感情に相応しい。失ったと思っていたものが還ってきた。僕は、再び走ることが出来る。


広きフィールドを駆け、一筋の光となることが…!!



「セナ!!」

痺れを切らした母親が、無遠慮に部屋のドアを開いた。セナは、ぱっとシーツを頭から被る。泣きはらした顔を見られるのは気まずい。もう二度と流れまいと、枯れてしまったかのような涙腺であったのに…今は、じわりと雫が沸いて来る。

「セナ、起きてる!?」
「うん…起きてるよ。起きてるから、出てってよ」
「もう!まもりちゃんがさっき雁屋のシュークリームを持ってきてくれたのよ!さっさと起きないと食べちゃうからね!!」

母親はさっとカーテンを開けて、明るい日差しを部屋に送り込むと、こんな時間まで眠って呆れた子だね。と言いながらセナの部屋から出て行った。セナはシーツから顔を出し、窓の光を見める。

「…まもり、姉ちゃん…?」

呟いた名前は、セナにとっての姉だった。そして、一人の守るべき女性だった。
けれど、まもり姉ちゃんは死んだ。
飛行機が落ちて、みんな死んだ。

「…生きてるわけないんだ。そう、だってみんな死んじゃったんだ…」

病院から動けずにいるうちに、ひとり、またひとりと葬式が終わっていた。足がなくなったショックで、セナは一時、外界からの接触になにも反応しなくなっていた。無反応が直ったのは、進が見舞いに現れたときだった。

「そう。僕の足があるわけないんだ。だって、なくなったんだから…」

でも、あるんだ。
足の感触があるんだ。

本当なんだよ。
セナは怯えながらもベットから立ち上がった。右足に体重をかけようとする一瞬、わずかにひるんだが、しっかりと床を踏む感触が足から脊髄を伝って脳髄へと伝達される。軽くジャンプをしてみる。痛くない。しっかりと、床を踏みしめている。
もう一度、部屋の中を見回す。

違和感。

「…?」

見慣れていた、けれど、もう部屋の中に掛かっているはずのないものが目に入った。

「…なんで、中学校の制服が掛かってるの…?」

セナは急いで立ち上がると、机の横のカレンダーを見た。

「…嘘…」

セナの身体から力が抜けた。
カレンダーは、セナが中学二年生の春を示していた。


+++++++++++++++


景色が後ろに流れていく。
少しはしているだけなのに、息が荒くなってきた。
アメリカ合宿を終えた後なら、たったこれだけ走っただけでこんなにも体力を消費することはなかった。
この身体は、貧弱だ。
心臓が激しくポンプ運動をしていたが、セナは走った。
風が、顔を撫でて後ろへと流れる。
振る両腕が空を掻き、交互に出る脚が大地を蹴る。

「はぁ…はぁ…ここだ」

息をついて、おぼろげな地理を頼りにたどり着いたのは中学校だった。
日曜日の休日、中学校の校庭では運動部のユニフォームがちらほらと見えた。

せわしなくセナは彼らに目を走らせる。
きっと、彼らはいるはずだ。
目に飛び込む、赤いユニフォームと大きな話し声。

(…いた)

無意識に握り締めた手を胸に当てた。どきどきしている。

一人は、金色の髪の色がまぶしい細身の男。
一人は、大きな丸い巨体を揺らしている男。
一人は、がっしりとした体格でしゃがみこんでいる男。

蛭魔、栗田、武蔵。

セナは感極まって彼らの名を呼ぼうと口を開きかけた。
しかし、セナが声を出すより早く、ヒル魔がついっとセナへ視線をよこした。
吊りあがった瞳が、一瞬、セナの瞳と合わさった。

(…あ)

それだけだった。

ヒル魔はそのままスッと視線をはずした。
セナは冷水を浴びせかけられような気がした。
足元で踏みしめているはずの地面がなんと頼りないことか。


ゆらゆら、ゆらゆら。

(…あれは…)

あの、瞳は。

(知らない・・・・人間を見る目だ)


喜びに沸いていた心臓にがんじがらめに鎖が食い込んだ。
ぐちゃり、と頭のどこかで自分の心臓がつぶれる音を聞いた。



02 積み重ねた道 変わる道


真新しい白い制服に身を包み。
少年は桜の散る並木道を歩いていく。

進むはずのなかった道を。
新たなる新入生として。


「あの、入部します」
「え?」

受付にいた男は、現れた入部希望者に戸惑ったような目を向けた。小柄な少年だった。およそ、体格だけの話ならば体育会系に向いている体つきだとは到底いえない。少年が入部希望した部活は、多くの体育系の部活がそうであるように、スポーツと言う名の身体と身体の戦いであり、押せば吹き飛ぶような少年に向いているスポーツだとは思えなかった。

「…えっと、それは、マネージャーとして?」
「いいえ、選手としてです」
「あ…そうなの…えと、じゃあ、この用紙に必要事項を書いてくれる?」
「はい」

差し出された真白な用紙に迷うことなくすらすらと書き、ペンを置いた。

「…書けました」

受け取り、ざっと不備がないか確かめて、名前確認する。

「あ、うん。ありがとう…えーっと、小早川くん?」
「はい」
「部活だけど…月曜日の放課後に校庭でやるから…」
「はい。楽しみにしています、じゃあ」

歩み去っていく背中を見送って。

(まぁ、アメフト部は生半端な気持ちのヤツにはきついから脱落するんだろうな)

と、思った。


++++++++++++++++


ぐるりと一人ひとりの本質を見極めようとするように、庄司は腕組みをして居並ぶ入部希望者を見回した。身長が高いのもいれば、低いのもいる。概ね彼らの体格は良かった。

「新しく入部した者たちにまず言っておこう。王城のアメフト部は名門といわれている。しかし、誰にでも一歩を踏み出さないことには何も始まらない。しかし、中学からはじめるお前たちも遅くはない。努力さえすれば、必ずや努力は報われるだろう。上級生に混じって今日は基礎的なトレーニングをやってもらう。…何か、質問は?」

王城は中高一貫のエスカレーター式の学校である。そのため、中学生と高校生は部活は共同で行っているところが多い。明確に中学・高校と分けて活動している部活もあることにはあるが、多くは中高生が一緒だった。新しく入部してくるものは、新中学生の方が多い。高校からの途中入学でアメフト部に入部するのはほんの一握りしかいない。高校から入部して、アメフト部に入るものは例外なく中学でアメフト経験者だった。

「監督」

集団の中から声が上がった。部員たちの目が、興味を引かれて声を上げたものの姿を探したが、見当たらない。だが、集団の中をすり抜けて、人の壁に埋もれていた少年が姿を現した。庄司も、スポーツをするには小さな少年を見て、中学生ならばまだ成長期なのでこれからぐんぐん成長するだろうと考えた。

「なんだ?」
「…お願いがあるんです」

突然の「お願い」に、庄司は眉を潜めた。なんの脈絡のないお願い。

次に来る言葉はなんだろうか?
僕は身体が弱いんです、だから、練習に加わらなくてもいいですか?なんて言葉だったら、イチニも言わずに部活に来るなと言ってやろう。意味のない、目標もない、やる気もないことをしても、それは無駄だ。
だが、少年が吐いた言葉は、庄司の想像を遥かに超える一言だった。誰か一人ぐらいはそう言い放つものがいるかも知れない、だが、この少年が吐く言葉としてはあまりにも大言壮語だった。

「僕は、進さんを抜けます」

様子を興味もなく淡々と見守っていた男、進清十郎の肩が微かに揺れた。
馬鹿なことを言うな、出来るはずがないだろう、相手が誰だか分かっているのか、抜けるって?誰が?高二にして最強のラインバッカーとして走っている男を?可哀想に、馬鹿なことをいうやつだ。皆の心情は嘲笑と言うよりも、哀れみを交えたようなため息となって吐かれた。

少年の瞳は、じっとそらされることなく庄司を見上げる。なんの変哲もないはずの黒い瞳に宿る色に庄司はどこかで見た覚えを感じた。これは…どこで見たのだろうか。多くの人間が似たような瞳をして、去っていったのを覚えている。
…深い。
深い黒い色をしたこの瞳の色は、深く、奥が見えない。この少年は、一体何を抱えているのだ?

「願いとは?」

気が付いたとき、庄司の口は動いていた。返事にどこかほっとしたように少年は首をかしげた。

「僕の願いを。我がままを…三つだけ、叶えてください。それだけです」
「それだけ、と言う割には願い事が三つとはな…」
「はい」

少しだけ、少年はすまなそうに瞬きをした。
庄司は顎に手をあて、考えた。少年が進を抜けるとは思えない、足の細さ…足の筋肉は多少発達しているようだが、体つき、身長、どれもが進を抜けるという確固たる要素に結びつかない。
少年の目は、進を抜けると完全に信じている目だ。「抜けると思う」「抜けるかもしれない」…そんな仮定の言い方ではなく「抜ける」と断言した。ぶつからせてみれば、誰もが進を抜けないことを身を持って知ることとなるだろう。
まぁ、いい。と、軍司は進に言った。

「いいだろう。…進も、いいか?」
「…ええ。監督がそうおっしゃるなら」
「ありがとうございます、進さん、監督。防具はお借りしていいですか?」
「ああ、そこにおいてあるやつから適当に選べ」
「はい…あ」

無造作に校庭に積み上げられていた新入生用の防具に向おうとする少年は、はっとして立ち止まって振り向いた。

「あの…僕、アイシールドの付いてる防具ってありませんか?」
「アイシールド?そういうのは協会許可がないと駄目ってことになってるんだけど…」
「僕、ちょっと左目が疲労しやすいんですけど、アイシールド作ってもらえることって出来ますか?」
「うん。まぁそういうのは医者の許可が要るんだけど…」
「そうなんですか…じゃあ、今度持ってきます」

言いながらセナはテキパキとユニフォームを着込んでいく。

「君…アメフトの経験は?」

初めて着るとどうやってきたらいいかわからないユニフォームをなれた様子で着ていくセナに高見沢は聞いた。

「あ、僕は小早川瀬名です、高見さん」
「小早川くんね…で?」
「アメフトの経験ですか?…こういう団体に所属してするのは今回が初めてです」
「そう高こ…はぁっ?

眼鏡の長身の男、高見の眼鏡がずり下がった。周りの部員もあっさりとしたセナの言葉を思わず聞き流しそうになったが、脳に言葉が到達すると同時に、すっとんきょんな声をあげた。セナは、彼らの開いた口がふさがらないという心情を感じたのか、それまでほとんど動かなかった表情をはじめて動かして微笑した。

「…心配してもらわなくても大丈夫です。今の・・進さんなら、僕は抜けます」

セナとの手合わせの為に自らも防具を着た進に視線を投げかけながら、セナは目を眇めた。
好戦的でいて、嬉しそうで…そして、どこか悲しそうな瞳だったことに気が付いたのは庄司と進だけだった。

瞳がすぐにアイシールドつきのヘルメットに覆われた。

「宜しくお願いします…進さん」

そして、ここにのちに幻の対戦と呼ばれる一騎打ちが行われた



03 手を伸ばしたら幻


「待ってください、進さん!桜庭さん!僕も一緒に行きます」

校舎から出て少し歩いたところで、後ろから走って追いかけてきたセナの申し出に、桜庭は「え?」と驚いた顔で聞き返した。小さな身体に大きめのスポーツバックを背負ってセナは首をかしげた。

「僕も、一緒に偵察に行きます。監督の了承はとってますよ」
「そうなの?うん…じゃあ、一緒に行こうか。ね、進」
「ああ、問題ない」

身長のつりあわない三人は目的地に向って歩き出した。


桜庭は、横をちょこちょと付いてくるセナをそっと見下ろした。つんつんに不思議な方向にはねた髪の毛が特徴的な少年だ。
一目見たら、とてもじゃないが体育会系の部活に入っているようには見えないだろう。絶対に文化系が似合っている。視線に気が付いたのか、セナがふと見上げてみたのでさっと視線をはずして前を見る。桜庭にとって、この新しく入ってきた後輩は掴みどころがなくて分からない存在だった。

今でも、桜庭はあの日見たことが信じられない。セナの突然の進との対戦。
抜けるわけがないだろう、馬鹿な子だな。進に適うわけじゃないじゃないか。
…誰も追いつけない、抜かせない。
それが、進だ。

白き槍の異名を取る、天才。

だが、抜かれた。

誰もが信じられなかった。進が抜かれた。それも、ほとんど経験がないと言った少年に。想像すらしていなかったことを、この後輩はしてしまった。何が起こったのか、誰もがわからなかった。白き槍に突かれ、地に倒されると思われた少年は、閃光のような速さで進を交わした。

「…嘘だろ…?」

誰かが掠れた声でもらした。きっと、一番信じられなかったのは進本人だっただろう。
すり抜けられた両手を、立ち尽くして見つめている。

ざまぁみろとは思わなかった。
でも、自分とってのヒーローであり、大きな壁である進が抜かれたことで、進でも抜かれるのかとどこか不思議な気持ちになったことは確かだった。

「…ありがとうございました、進さん」
「………いや」

進は幾分反応が遅れて返事をした。

「僕が抜けたのは、僕が進さんのことを知っていたからです。進さんは…僕にとっての憧れで、あなたは、僕に立ち向かう強さをくれた人だから…」

そういって、セナはアイシールドヘルメットを脱ぐと深々と進に頭を下げた。

セナはそれから進に良くなついた。懐いた、というかよく進の傍にいるというだけだ。

特に会話をするわけでもない。もともと進は無口な男だし、セナも自分から話題を提供できるほど器用な話術を持っているわけではないので、二人の間に会話は少ない。だが、きっとそれが一番心地よいのかもしれない。桜庭自身、多くを語らないが常に真面目で真っ直ぐな進と居ることは自分を省みることが出来る。
進は進で、セナに抜かれたことでまた一皮剥けたようにトレーニングに励むようになった。これ以上トレーニングを積んでどーするんだ…一体常人の何倍の練習をすれば気が済むんだよ…と桜庭は思った。セナはどんな練習をするのだろうかと思ったが、存外、普通のみんなと同じトレーニングをしていた。面白いことに、腕の筋肉がちょっと無いらしくもっぱら脚力に見合うだけのバランスの取れた身体にするために調整的なトレーニングをしていた。

部員たちはみんなセナがどんな練習を積んであそこまで早くなったのか聞きたがったが、セナは曖昧な顔をするだけだった。
一度だけ漏らした言葉は

「特殊な環境で育ったんだよ…ずっとね…」(パシリとかパシリとか…奴隷とか?)

と、どこか遠くを見つめていったのだった。
何かその哀愁の漂う姿に部員たちはそれ以上聞けなかった。

基本的に、セナはいつもどこか冷めたような表情をしている。表情に変化があるのは、桜庭や進、監督、高見沢などといったメンバーだった。そのセナの変化の基準はいったいどこにあるのかも桜庭は分からない。
少し進を抜かされたことで桜庭としてはセナにわだかまりがある。そんなに悪意に満ちた心ではないが、なにか気まずいもやもやとしたものがあるのだ。

「今日の対戦って…恋ヶ浜と…」
「泥門の対戦だ」

言い淀むセナの言葉の後を進が引き継いでいった。

「…そうですね…。ちゃんとメンバー、揃ったんですね…」
「泥門は、前回やったときなんてオレ脅されたんだよー。ヒル魔っていうやつ知ってる?セナ君は?」
「…ええ、噂、だけなら…」

曇ったセナの表情には気が付かず、桜庭は身振りを交えて前回の対戦の様子を説明する。

「まぁ、クォーターとしてはいい腕してるよね。取りやすそうなボールだし。でも、あの性格はどうにかしてほしいよ…ヒル魔っていうのは、オレらと同じ二年なんだけど、やることがあくどくて、いっつも銃器を持ち歩いてんだよ。セナ君も危ないから、近づかないようにね」
「…はい」

徐々に会場に近づくにつれて大きくは無いが応援が聞こえてくる。

「ヒル魔は確かに一流の選手だがな…小早川、どうした?」

心なしか足取りが重くなり立ち止まってしまったセナを、進が足を止めて振り返った。セナはじっと大地に釘付けにされてしまった足を意思の力で前に、一歩踏み出す。見るのが怖い。泥門を見るのが…心の決着は、当の昔につけたはずだった。

僕は泥門の道を選ばなかった。
捨てた。
なぜならあれは、あれは過去の幻影だから。彼らは死んだ…僕の、記憶の中の思い出で、すでに…。
死んだ人間、"僕"を知らない人たち…。あの、若いヒル魔さんたちが僕を見た目は、知らない人間を見る目だった。知らない、人間。交わることの無い、人の道。

ああ、僕の"仲間だっヒル魔さんたちは死んだ"んだ。

セナは、仲間の死と自分の足を失ったことでひび割れそうなっていた心臓の最後の糸が切れ、粉ごなに散る音を聞いた。そして、その心臓が時を止めたようにひとつの誓いの楔が打ち込まれた。

理解してしまった。
もう、"生きている彼ら"とともに、同じ道を目指そうとは出来ない。

『泥門のアイシールド21小早川瀬名』が所属していたのは、"死んだ彼ら"のチームなのだ。

だからこそ、見なければならない。あの日から、一度としてみていない彼らの泥門デビルバッツ。彼らを倒すべき敵として。

「頑張ってー!!」
「押せ押せー、恋が浜!」
「デビルバッツー!ファイトー!!」

試合に激を飛ばす少数の観客たちを避け、反対側に回って花壇の塀に腰を下ろした。桜庭は鞄を探って、デジタルビデオを構える。試合は後半戦に入っており、両者とも点数の差は開いていなかった。

「あー…これだと、どっちが勝つのかなぁ…。恋ヶ浜も泥門も、なんかどっこいどっこいの戦い方してるねぇ」
「どちらが勝とうと次の試合で当たるのだからな」
「そうだけどさぁ…セナくんはどっちが勝つと思う?」
「僕、ですか?僕は…」

食い入るようにフィールドに立つ見知ったものたちを目で追いかけていたセナは、慌てて視線を無理やりはずして桜庭の問いに首をかしげて考え込んだ。

「…泥門」

やがて、ぽつりとセナは答えた。

「えー…泥門?泥門かぁ…まぁねどっちが勝手も可笑しくない試合だけどね」
「なぜ、泥門だと思うのだ?」
「え?」

そこまで突っ込まれると思っていなかったので、セナは進の追及に困惑した。

「えっとですね、泥門…頑張ってる、かな?と思ったんです。ただ。それだけです」
「……」
「ねぇ、シリアスなとこ悪いんだけど、こっちに向ってなんかなんかキテんだけどーーー!!うわぁああーーー!!」
「桜庭くーんvvきゃーーー!愛してるーー!」

物凄い速さでロケットと化してやってきた少女たちに桜庭は脱兎のごとく逃げた。ぽいっとパスされたデジタルカメラをキャッチしたセナは、慌てて「桜庭さん!」と叫ぶが、すでに桜庭の姿は消えていた。土煙のようなものが遠くに見える。きっと、あれが集団に追いかけられている桜庭の現在位置だろう。

「桜庭は戦線離脱した。このままスカウティングを続けるぞ」
「はい…」

幸い進は動じることなく(そして、桜庭の心配をするようすもなく、)仁王立ちしたまま残っていたので、セナは一人で取り残されなかったことにホッしながらカメラをまわした。

結果は…泥門の勝利だった。

セナは、ゆっくりとカメラを下ろした。
視線の先では、初めての勝利に沸く泥門デビルバッツたち。

(泥門が勝った…)

喜びと悔しさが胸を埋める。

喜びは、泥門デビルバッツが勝利したことに対して。
悔しさは、自分がいないのに泥門デビルバッツが勝利したことに対して。

(良かった…)

セナは目を開く。
勝利に沸く泥門デビルバッツの中に自分の幻影を見ながら。


「……これで、心置きなく潰せる」


泥門デビルバッツの中にいる幻の自分に向って手を伸ばして、握りつぶした。



04 ありえなかった日常


一年C組21番。
小早川瀬名。
王城の西寮の寮生。

彼は、入学してほぼ二週間たったが、彼は一向に他の寮生たち馴染む気配がなかった。一人部屋を希望したセナだったが、はその願いをかなえられることなく二人部屋になってしまっていた。多少の気使いを同室の生徒に見せているが、マイペースを崩さずにいつも食事には時間どうりに現れ、一人黙々と食べて、そしてどこかへ消えていく。教室でも話しかけてずらい雰囲気が彼の周りを取り巻いていた。

セナは、授業を真剣に受けている気配が全くない。眠っているわけでも、誰かと話をしているわけでもない。ただ、窓から外を見ている。教師も最初は注意していたが、一向に窓の外から黒板へと視線を移すときがない。広げられているノートは白紙に近く、教科書の方に申し訳程度の書き込みをしていあるだけだった。入学早々、それでいいのだろうかと王城の気質である優しさを持つクラスメートたちは思った。
小早川瀬名はいつも遠くを見ている。クラスメート全員の共通したセナへの印象だった。

「小早川、いるか?」

昼休みに珍しく進が訪ねてきた。黙々と購買で買ったお弁当を食べていたセナは顔を上げた。クラスメートも有名な上級生の登場に興味を引かれて注目してきた。

「進さん?…どうしたんですか、教室まで来るなんて」
「放課後のロードだが、お前も来るか?」
「ロードですか?」

進からわざわざ誘いに来るのは珍しいこともあるものだ。セナは周りからの視線を多少感じながらも気にしてはいなかった。自分でも随分神経が太くなったものだと思う。"前"の自分だったら他人から注目されることにすら怯えていたのに。…いや、これは神経が太くなったとかじゃなくて、どこか神経が切れてしまっているから感じないだけかもしれない。聞き返したセナに、なにか都合が悪いと思ったのか、進は首を振った。

「…いや、他にすることがあるならいい」
「いえ、そんなことないです。行きます。誘ってくれてありがとうございます」

セナは諾と答えた。

「いや。授業後、ジャージで校門前でいいか」
「はい。監督には…」
「監督このあと言いに行く。小早川のことも言っておこう」
「ありがとうございます」

進と一緒に走ることは学ぶことが多い。
それに、進は無口だから一緒にいて楽だった。なにも話さなければ向こうから聞いてこない。進を抜いてしまったことでセナはアメフト部内での扱いに困ったようだが、概ね親切にしてもらえている。
デビルバッツと違ったチームで、自分がどんなポジションをもらえるのかまだ分からないが、出来ればやっぱり慣れ親しんだランニングバックがいい。ありがたいことに進はラインバッカーだし、ポジションは被らない。

「あの、進さん。出来ればでいいんですけど…その、今日は僕の行きたいルートで走っていもいいですか?かなり遠回りになってしまうかもしれないんですけど…」

校門前に来たセナは躊躇いがちに進に行った。

「いいぞ。どこへ向うんだ?」
「いろいろです」

そういってセナは苦い感じに笑った。セナに付いて走り、付いていった先は本当にいろいろだった。

泥門から始まり、恋が浜、賊学、太陽。
一体どんな基準で選んで各学校を選んでいるのか分からないが、長い道のりをセナは黙々と走り、各学校の校門の前で立ち止まってはその学校を見上げた。

「あ、あと、最後にひとつだけ!!」
「ああ…」

いつもよりも長い時間を走っている気がする。すでに日も傾いて、あたりは薄暗い。

「…すごい建物だな…」
「王城だって、外見すごいじゃないですか」
「しかし、高い…」

進は驚いたようにしてその建物を見上げた。まるで天に届くかのように高いビルだった。

「ここは、巨深高校です。ここにひとり知り合いがいるんですけど、凄いんですよ」
「ほう…」

珍しくにこりとセナは笑いながら言った。

「でも…王城は誰にも負けません。誰にも。…そう、神にさえも」
「小早川…?」

セナは冷たい炎のような目で、高層ビルな巨深のビルを見上げた。




「……夏大会だけでいい。僕は、神に負けられないんです」



05 罪の意識は空に消え


四月十七日。聖泉球戯場。

「いよいよやってきました、王城VS泥門!!この対戦カードは実は二回目なんですねー。去年の夏大会での結果は99対0!!さて、この度の悪魔の王への挑戦は、果たしてどこまで届くのでしょうか!王城にはジャリプロの桜庭君がエースとして所属しています!桜庭君がいれば勝てます!」

大江戸放送のアナウンサーがカメラに向ってめちゃくちゃなことを言っている。

「テレビカメラ、うざいなぁ…っていうか、女の子の悲鳴が黄色ッ」
「すいません…オレの所為で…」
「ああ、いやいや!桜庭の所為だけど所為じゃないから大丈夫だよ!試合になれば、無視できるしね」

高見が毎度のことながら観客を埋める女の子の叫びに、呆れていると桜庭がどんよりと影を背負って申し訳なさそうに謝った。

「いいか!いくら泥門との試合だからと言って手を抜くようでは、どんなヤツと戦っても勝つことは出来ない!挑む気持ちを常に忘れるな。我々の全力を出し切ることは、全ての道に繋がっていくのだ。攻守共にメンバーの発表は先の通りだ。分かったな」
「はい!」
「よし、試合まであと二時間だ。最後の軽食だ」

腕時計を見て、庄司は見えるところに止まっていたワンボックスカーに向って手を上げた。中から、荷台に乗せた軽食を運んでくる。

「進さん?食べないんですか?」
「ああ、必要な分はすでに的確な時間に取っている」

見るからに美味しそうな弁当に手を着けようとしない進にセナが不思議に思って聞くと、そういう返事が返ってきた。

「そうですか…」
「おお?進は食わないのか?オレが貰っていいか?」

大田原がひょいっと弁当を掻っ攫った。

「ええ」

進も食べないでそのままの残すのは忍びなかったので大田原の申し出にすぐに頷いた。泥門のスタンドから羨ましそうに見ている視線を感じながらもセナはもしゃもしゃと口を動かした。


+++++++++++


「出れるか?小早川」
「…はい」

庄司に、セナは頷いてヘルメットを被り、立ち上がった。

「両選手は、グランドへ入場してください!!」





―…言えなかったことがある。

ヒル魔さん、まもり姉ちゃん、栗太さん、モン太、雪さん、小結君、十文字くん、黒木君、戸叶くん…みんな、僕にとって大切な仲間だった。
本当は、飛行機事故でヒル魔さんたちが死んだと聞いたとき、そんなことはどうでもいいと思ったんだ。
もちろん、悲しみがあって、すぐには彼らが死んだことを信じることは出来なかった。

でも、それ後に。
僕は、ほんの一瞬でもこう、思ったんだ。



そんなことはどうでもいい!!
神様!僕の足を返して!僕の足を奪わないで!!



僕の光を!!




そう、思ってしまった。
……なんて、最低な人間なんだろうか。

死んだ人間のことよりも、自分の右足がなくなって、二度と走ることが出来ないと知ったときの方が僕は悲しかったんだ。

走ることが、僕の存在価値のようなものだった。
僕に出来る、僕が認めてもらえる、たった一つの証明。

それが、奪われたんだから。

二度と走れない。
ともに乗り越えた仲間も死んだ。



――…絶望した。



僕は、最低な人間なんだ。
死んだ仲間のことより、少しでも自分が走れなくなったことのほうに意識が行ったんだから。…あの人はそんなことはない、と慰めてくれたけど。誰よりも僕が僕を最低な人間なんだと思う。

神様なんているのかどうか知らないけれど、この時に戻してくれたのが神様だか悪魔だか知らないけれど、僕は誓ったんだ。

たった一つのことを。
そのひとつのことを成すためだけに、僕は今ここにいる。

全ての敵をなぎ倒して、あの夢を見るために。



「……でも、僕が彼らと戦うのは倒すためじゃありません」
「どういうことだ?」

呟いた声に、怪訝そうに進と庄司は聞き返した。

セナはヘルメットのしたからでもそうと分かるほど、口元ゆがめた。
他人への嘲笑のようであり、また、自分への自嘲のようでもあった。


「…僕の中で、彼らを殺すために」


そう。
今を生きるあなたたちは、邪魔なんだよ。